カテゴリー別アーカイブ: 岩内町の風景

昔のスキースタイル

 12月から日曜日は岩内のスキー事情について書いておりますが、今日はちょっと趣向を変えて、昔の写真を見てください。

 この写真を出すのは、かなりの勇気を必要としますが、子供たちに昔のスキーはこのようなものだったと教えるには、やはり写真が一番だと思い、意を決して載せます。私が小学1年か幼稚園児くらいのときでしょうか。

 スキーは単板(たんぱん)と呼ばれる、木一枚でできたものです。金具はカンダハーと呼ばれる靴の先をひっかけて、かかとをワイヤーで固定するというもの。注目はストックです。竹でできており、竹の節目がちゃんとあります。さらに、リングにご注目。この部分も竹で、皮で上手に結ばれているのです。

 まだまだ続きます。靴は皮だったと思います。まるで登山靴のように、紐で縛るのですが、ほどけた時はかじかんだ手で上手に結べずに難儀したものです。

 ここまで書いて、どうだ~!と言いたくなりましたね。このスタイルを知っている人にとっては、眼の玉が飛び出るほど「懐かしい」でしょ。

 着ている服装は、ナイロン系のものはなく、ほとんどが綿と毛糸です。手袋は転んで雪をつけるとどんどん膨らんでいきます。お尻はべちょになって、家に入ってももひきとパンツまで濡れたものを脱ぎます。(変な想像してはダメよ)

 場所は家の前で、ゆるやかな傾斜になっています。道路で滑ってもまったく問題なしですが、この時はまるで滑ることができませんでした。歩くのもやっとのことで、とりあえずは、「カメラ目線で笑顔」の親に対するサービス精神の一枚です。

 この写真を撮った時は、道具を兄から借りたのですが、のちにお下がりとして、私のものになったと記憶しています。

 この後、札幌オリンピックを経由して高度経済成長、日本列島改造論とともに、スキー道具、スキーウエアー、スキー場は大きな変化をしていきました。

 

昔の岩内郵便局(本局)

 今現在、岩内町に郵便局はいくつあるかお分かりでしょうか。本局の他、高台郵便局、島野郵便局。簡易郵便局は、大浜、東山、宮園にそれぞれあります。

 写真は、郷土館で撮らせていただいたものです。現在の建物ではなく、昔の本局です。1977年(昭和52年)に移転する前は、現在の北海信金岩内支店の隣付近に建っていました。

 当時、小学生だった私は、日曜日の朝に私書箱の中に入っている郵便物を取りに行って小遣いをもらっていました。私書箱を使っていた企業には、郵便物は配達されず、私書箱のカギをあけて自身で受け取ります。そのほうが、早く郵便物を受け取る事が出来るからです。

  数年前から、この私書箱が岩内局ではなくなりました。情報通信の時代の変化ですね。ところで、私書箱には、企業名ではなく、番号がついていていました。弊社の番号が何番かは、このブログの皆さまならすぐにお分かりですね。もちろん「18」番です。

いわないスキー場の現在

 12月から毎週日曜日は、岩内町のスキー事情についてお話をしてきましたが、今回は現在のスキー場の事をお話いたします。私自身、運営側に携わっている人間ではないので、間違った事を書いてしまったら、ご指摘ください。

 10年前に民間企業が撤退し、いわないスキー場は毎年、今年もリフトが動くのだろうかと言われてきました。リフトを動かすためには、それなりのお金がかかる。ロッジの運営には人件費もかかる。お客はスキー離れ。高速クワッドリフトが動かなければ、人が来ない。

 そんな悪循環で廃止になるスキー場は、日本のスキー場を見てもあちこちにあります。そんな中で、岩内スキー場は町の有志による運営によってここまで来ています。

 選択した道は、地元の子供が滑る最低のペアリフトを残す。クワッドは、メンテナンス費用がかかりすぎるために諦める。代わりに、パウダースノーを求める少数のお客を、キャット(雪上車で人を運ぶ)ツアーで、利益を確保する。

 すなわち、このスキー場では、2極化を進めたという事です。ある程度のレベルの人たちにとっては、ペアリフトだけでは物足りないのですが、地元の小さな子供たちにとっては、気軽に滑る事ができます。キャットでは、パウダースノーを求める人たちにとっては、リフトがないことが逆に他の人たちが入って来ないというメリットにもなります。

 ロッジの裏方では、昼食時の忙しいときだけボランティアとして、お手伝いをしに来る人もいます。なんとかこのスキー場を残したいという気持ちから、ここまで来ている事は、いろいろな人たちの努力があってこそだと思います。

 時代とともにいろいろなものが変化しています。いわないスキー場は、そんな変化を経験して、また変えなければならない時が来ることでしょう。大切な事は、子供たちにとってどうなのか、を考えてあげるべきだと思います。

凍った海岸線の氷柱

 岩内から寿都方面へ行く海岸線は、雷電海岸と呼ばれています。その海岸線の10年ほど前までは、小さなトンネルがいくつも連なって、トンネルを抜けた場所からは、絶景を見ることができました。

 日本海側の海岸線の特徴として、荒波に削られた切り立った崖と海に挟まれたところが多く、崖からは、所々から大小の水が流れ出ているところがあります。その水が冬になると、凍りつき大きなつらら状になっています。

 1996年、古平町のトンネル岩盤崩落事故から、危険個所を回避するための大きなトンネルが次々と作られて、今ではその絶景を見ることができるポイントが少なくなりました。

 写真は、岩内から雷電へ向かう一番最初のトンネルに入る前の様子です。これは小さな氷ですが、雷電の近くに行くと、ものすごい氷の柱を見ることができる場所もあります。ここで紹介しろと?いえいえ、皆さんの目でお確かめください。ただし、車の運転にはくれぐれも気をつけて。駐車スペースの確保されてた場所をお選びください。 

岩内にあるシベリア

 1月29日のブログに庚申塚(こうしんづか)のスキーのお話をしましたが、やはりそこで滑ったことのあるみなさんにとっては、懐かしい場所のようですね。

 あの宮園の場所は、倉島牧場が近くにあり、さえぎるものがないせいか、風が強い場所でも有名です。そこにある団地が「シベリア団地」と呼ばれていました。もちろん、この呼び名は俗称であって、正式な名称ではありません。

 私が子供だったときに、「先生はどこに住んでるの?」「シベリア団地」という会話で成り立っていたものです。この言葉を差別用語ととらえるかどうかは、住んでいる人がどのように感じるかだと思います。でも、私は子供心に、シベリアに住んでいるのか、ずげえな(すごいな)とちょっと畏敬の念をもっていたのは確かです。

 誰が「シベリア団地」と最初に言ったのかわかりませんが、なるほどと思わせるユニークな俗称。どこにでもある「なんとか銀座」よりは私は気に入っています。

いなおの坂でそり遊び

 平成23年の12月から24年1月の日曜日は、岩内町のスキーに関する事を、昔を振り返りながら書かせていただきました。書いていると、当時の雪の中で遊んだ記憶がフラッシュバックしてきました。今日は、まだ小学低学年だった頃のそり遊びについて書かせていただきます。

 大浜の「いなおの坂」と言って、わかる方は、40代後半の年齢まででしょうか。東山のお墓から浜に向かって、大きなカーブを描きながら下ってくる坂を、私たちは通称「いなおの坂」と呼んでいました。国道229号線との交差する場所に「いなお呉服店」というお店があったからです。

 お墓のところには漁業協同組合の無線局がありました。そこから20mほどは、とても急な斜面になっていて、そこからそりで滑り、車道に出て、そのまま滑り下りるコース。その他、車道に出てから、また左右の崖に落ちていくというコースがありました。

 それらを単独で滑るのはもちろんのこと、そりを二つ、三つとつなげて滑ったり、10以上のソリをつなげることもしました。そうすると、カーブでは後ろのそりが、思いっきり振られて転倒するなんて事も。2つのつなげたソリ同士で競争するときは、コーナリングのテクニックが大切になります。

 学校から帰ってくると、近所から子供たちが集まり、だれともなく、そりを連結しようという話になったり。競争のルールも、仕切り役がいて、小さな子は大きな子の間に挟んで、振り落とされないようかばったり。そんなことが自然にできて遊んでいました。

 コースは自動車の道路なのですが、自動車の交通量が少ない時代です。冬は今のように除雪が行き届いておらず、もっぱら、そり、スキーの場所になっていました。たまに1時間に1台程度トラックが来ると、数十人の子供たちが、一斉にその行方を見守ります。

 着ているものは、今のようなナイロン系ではなく、厚手の綿やウールなので、濡れてくるととても冷いのです。しかし、帰るのが惜しい気持ちの方が上回っていました。良き思い出です。

 ちなみに、「いなお呉服店」は数年前に取り壊され、今は更地になっています。坂自体も、当時は歩道もなく、砂利道でしたが、今は側面をきちんとコンクリートで固めた立派な道路になっています。ここで遊んだ事を覚えている方はいらっしゃいます?

おそば屋の和吉さんの紹介

 岩内には素敵なおそば屋さんがあります。その名は「和吉」。バスターミナルから100mほど東に行った場所です。若く研究熱心な御主人とセンスのいい奥さまが切り盛りしています。

 御主人が朝早くから、そば打ちをしているのが、窓越しに見ることができます。もちろんそれは開店前の時間帯です。お店は平屋の独立した建物で、このおそば屋さんのためだけに建てられたものです。

 お店の中はこじんまりとしていて、ジャズ系の音楽が流れていて、落ち着きます。よくあるテレビとスポーツ新聞がないのがいいですね。岩内のパンフレットや情報雑誌など、旅行者を意識してくれているのが、とても感じがいいのです。

 写真に見られるように、おそばを使ったスイーツなどの研究もしていて、日本の伝統の味を守りつつ、現代人のニーズをいろいろと探っています。おそばの味は・・・・ここは「食べログ」ではありませんので、是非とも一度お召し上がりください。

昔の岩内スキー事情(庚申塚編)

 12月から、日曜日は岩内のスキーの話題を特集しております。

 庚申塚(こうしんづか)というスキーができる場所が岩内にありました。庚申塚という名前の場所は、日本でも結構あちこちにあるのではないかと思います。信仰的な意味があると思われますが、ここではスルーさせていただきます。

 岩内町の宮園地区で、岩内岳方面に向かう斜面があり、下には川が流れています。昭和40年代の子供たちは、その50mほどの斜面を使ってスキーを楽しんでいました。現在の場所で言うと、高校の教員住宅がありますが、その裏手にあたります。

 土曜日の午後や日曜日にもなると、たくさんの子供たちでにぎわっていました。大浜からは、2kmほど離れていますが、子どもたちは自分の足で長いスキーを担いでその場所まで行きました。

 当然のことながら、リフトなんてありませんから、カニの状態(横向き)で登っては滑るの繰り返しです。登るのに5分、滑るのに10秒くらいでしょうか。それでも、楽しくて何度も滑るのです。

 のどが渇くと、川のところまで行き、ストックのリングの部分に雪をのせ、そっと川の水をしみ込ませます。その雪に口を付けて、吸いこむと水を飲むことができるのです。その水がとてもおいしいのです。

 日が暮れかかると、三々五々、子供たちは家路につきます。今思い返すと、上手下手があったにせよ、子供たちは自然の中で、いろいろな工夫をして楽しんでいました。そして、そこには人が集まる場所のルールが存在し、皆ちゃんとそのルールを守って遊んでいました。

 写真は、先日撮ってきたものですが、木やブッシュがたくさんあって、当時の斜面の面影はなくなっていました。今の子供たちに、ここで滑っていたんだと言っても、鼻で笑われるだけでしょうがね。私たちにとっては、いい思い出ですよね。

雪捨場もそろそろ限界

 今年の北海道は、それなりに雪は多いようですが、特に岩見沢では大変な状況になっているようですね。岩内は、ひっ迫感はないのですが、それなりに降雪がありますので、排雪作業も連日行われています。

 写真をご覧ください。岩内町の雪捨て場、地場産業サポートセンター裏に位置します。左の写真は、12月18日に撮ったもので、まだこれからだという雰囲気ですね。右は1月23日に撮ったものでして、その雪の量の違いは歴然です。携帯カメラなので、その威圧感はないですが、かなりの規模です。

 連日ダンプカーが雪を運んで来ては、ドザッと置いていき、ブルドーザーが踏み固めながら山を築いていく。その繰り返しです。先週末、少し気温が緩むと、小路などでは、今まで固まっていた雪がザクザクとなり、車も走りにくくなりました。排雪では、そんな雪をかきむしり取るようにします。

 排雪が終わった後の道路は、広々としてすっきり。なのに翌日には、どこからともなく雪が置いてあるのです。除雪でのご近所づきあい、仲良くやりましょうね。

岩内の円山スキー場でのスキー授業

 先月から毎週日曜日は岩内のスキーの話題を特集しています。今日は当時の学校のスキー授業についてです。

 1970年代、私が中学高校時代、3学期の体育にはスキー授業がありました。体が小さく、他のスポーツでは、常に皆の足を引っ張っていた私です。友達はそんな私にスキーだけは一目を置いてくれました。

 第一中学校でのスキー授業は、校舎の裏側の20mほどの斜面を使うのが数回。その後一週間の体育の授業を一日にまとめ、午前中1時間か2時間授業をしてから、バスで円山に行き、スキー授業をするというもの。高校時代も同じでしたが、3年生の3学期は受験があるので、スキー授業はなしでした。

 スキーができる子にとっては、ワクワクする日です。授業が終わると、その場で解散ですが、残りたければ残ってもOKです。当然日が暮れるまで私は滑っていました。 

 レベルに合わせて4つのグループに分けられます。普段滑る子はいいのですが、滑らない子にとっては、とてもイヤだったと思います。でも、上手ではなくても、それなりに滑る事が出来るのが、当時の「北海道の子ならでは」でした。

 今はスポーツの多様化で、冬もいろいろなスポーツをやるために、あまりスキーには行かないようです。私が中学生の頃は、夏の間バレーボールやバスケットをしていても、冬にはスキー部にかけ持ちで入るといった友人もいました。

 学校の先生も、スキーの得意な人、そうでない人がいました。もちろん、体育の先生より上手に滑る生徒もたくさんいました。今は、本州出身の先生も多いようで、靴を履くことから教えなくてはならない子もたくさんいて、スキー授業が成り立たないらしいです。

 そんな話を聞くと、時代の変化を感じます。昔の方が良かったと言うのは、滑ることが好きだった側の言い分です。年に一度や二度のために、スキー道具一式を買うのはもったいないと言われる事ももっともです。

 でも、こんな素晴らしいスキーのできる環境が目の前にあるのに、スキーをしないことの方が、私は「もったいない」と思います。写真は円山(観音山)を真横から見たものです。建物は荒井記念美術館で、私たちが円山で滑っていた当時は、この建物はもちろんのこと、道路すらありませんでした。