カテゴリー別アーカイブ: 岩内町の風景

昭和46年1月号の広報いわない

 またまた弊社事務所2階から出てきた、広報いわない。昭和46年1月号ですから、41年前です。私は9歳の時ですね。

 ページをめくると、当時の岩内町長の長濱金太郎さんと、町議会議長の青山栄さんの挨拶が載っています。次のページには、昭和45年の町内10大ニュースが写真付きで載っています。人口は27,000人。今よりも12,000人も多い時代でした。

 10大ニュースで目に付いたのは、改良住宅550戸の建設が完了、これにより岩内大火(昭和29年)の後始末として、もっとも大きな課題であった応急仮設住宅が全部解消されましたと書かれてあります。16年も仮設住宅に住んでいた方がいたという事なのですね。

 もう一つ、ちょっと笑っちゃうのが、10大ニュースを募集して55人が応募したと書かれてあります。昨年の岩内の10大ニュースは31人の応募だった事は、このブログでも取り上げましたが、10大ニュースの決め方が今も41年前と同じやり方なのかと、びっくりです。

岩内円山スキー場の山小屋

 昨年12月から日曜日の話題は、岩内のスキー場について連載しています。本日は、先週に続いて円山(観音山)のスキー場についての続編です。

 いわないスキー場が1980年にできる前までは、円山と呼ばれるところで町民はスキーを滑っていました。先週は、ロープ塔が設置され、それを利用して滑っていた事をお話しましたが、今週は休憩所についてです。私のかすかな記憶で書きますので、違っていたら、お知らせください。

 小さな小屋の真ん中の部屋では、ダルマストーブが部屋の中央にあり、その周りを木でできた椅子が囲んでいました。ストーブの上部には、大きな金網が吊ってあり、そこに濡れた帽子や手袋を乗せて干します。

 奥には、近くに住んでいたおばさんが、ラーメンなどを作ってカウンターで食べることができました。ただし、日曜日のように、たくさん人が来る時だけの営業だったような。ほとんどの人は、おにぎりをリュックに詰めて持ってきました。もちろん、自動販売機などはありません。

 トイレはもちろんポットン式で、日没になると、それなりに薄気味悪くなります。ストーブの火の管理は、誰ともなく、最初に来た人がマッチで新聞紙、焚きつけを組み合わせて上手に火を付けました。帰りは空気穴を閉じて、最後に残った人が火を消して帰りました。

 私が中学生、高校生の時代ですから、この小屋の管理がどのようになっていたのかはわかりません。ですが、だれしもが、当たり前のように使い、暗黙のルールで使っていた記憶があります。現在のように、何かあるとすぐに町の管理が悪いなどとわめく人などいません。

 写真は、先日の夕方に撮ってきました。行く前は、まだこの小屋は残っているのだろうか?と思いましたが、ありました。岩内高原ホテルに行く時に、左折しますが、そこの交差点のすぐ奥にあります。

 今は、雪でたっぷり埋もれています。写真を撮る時は、ひざ上までの雪をラッセルして進みました。屋根の真中に煙突があります。そこから見える煙が、当時のスキー少年にとっては、とてもワクワクさせる狼煙(のろし)でもありました。

 この小屋を見ているだけで、当時のスキーでのいろいろな出来事がフラッシュバックします。あるシーンです。ロープ塔に乗るのに並んでいた時、私の友人に3月14日はスキーに来るかい?と尋ねたら、「ホワイトデーだから、来ない」と言われました。なにそれ?女性には縁がなく、スキーどっぷりの私には、理解できない発言でした。

 と、どうでもいいことをまた書いてしまいました。この小屋を見ていると、また変なシーンを思い浮かべそうです。皆さんはいかに?

岩内町唯一の歩道橋

 小樽方面から岩内の町に入ってすぐのところに、歩道橋があります。そりゃあるだろうと思われる方は、都会の方ですね。北海道の地方のちっちゃな町で歩道橋があるのは、非常に珍しいと思います。

 1972年12月に完成したと書かれてあります。たぶん、これは現在の東小学校と第一中学校が同年11月に新校舎として建設されたので、この2校に通う児童生徒を安全に通学させるためにと作られたものと思われます。

 私も第一中学校に通う時は、この歩道橋を利用していました。しかし、当時の交通量はさほど多くなく、なんでわざわざ歩道橋を使うのさと思いました。歩道橋を使わずに横断したところを先生に見つかると、大目玉を食らいます。

 写真をご覧になって変な形と思うでしょう。なんと風除けがついているのです。私が学生だった頃は風除けはなく、猛吹雪の時の歩道橋の上はすごい風で、かえって危ない思いをしました。私が卒業してから、風除けが取り付けられたと思います。

 でも、部活で疲れた体には、この登り降りは辛いのです。第一中学校までは片道2km。その中にこの歩道橋。今思えば、毎日のこの歩きが足腰を丈夫にしてくれたのだと思います。

岩内町の円山スキー場とロープ塔

 岩内スキー場ができたのが、1980年。では、それまでは岩内のスキーヤーはどこを滑っていたのでしょう?通称観音山(かんのんさん)と呼ばれる、円山という岩内岳の手前にこぶのように突き出た山があります。その東側の北斜面を滑っていました。

 リフトはありません。ですが、私が中学生になると、ロープ塔と呼ばれるものが、地元のある会社によって設置されました。

 そのロープ塔は一本のロープが回転しているだけ。そのロープをつかみ、スキーをそろえて滑りながら登っていくのです。スキー手袋は摩擦によって、縫い目がどんどんほどけてしまい、何度も母に縫い直してもらったものです。

 握力が必要なので、力のない女性や、私のように小さな体の子は、山頂まで行くことができず、途中で手を離してしまう事もよくありました。スキー手袋の上に、ゴム手袋をしてグリップ力を高めるという事もしました。

 何年かしてから、細いワイヤーにTの字の取っ手をつけて乗るものに変わりました。ちょうどおしりをひっかけるようになってるのですが、最初ひっかけたすぐ後の衝撃をうまく吸収できず、転んでしまう人が何人もいました。

 てっぺんに行くと、T字の取っ手を下に戻るワイヤーにヤジロベイ型にかけて戻します。とここまで読んで、その風景を想像できた人は、実際にそのロープ塔を使っていた人くらいなものですよね。説明が難しいのです。

 私が中学、高校生だった時なので、1970年代のお話です。そのロープ塔の写真がないのが残念です。どなたかお持ちてはありませんか?ということで、今月の日曜日もスキーの昔話が続きます。来週もお楽しみに。

 

家具の栗林の前に、今年もたら丸登場!

 岩内町駅前通り商店街にある「家具の栗林」。そのお店の前に、今年もたら丸の雪像が登場しています。

 昨年、同時期に商店街を盛り上げようと岩内町のキャラクター「たら丸・べに子」をお店の前に雪で作り、話題づくりをしました。一人だけではなく、たくさんのお店の人たちに、この輪が広がってくれたら、商店街が楽しくなるのではと始めたものです。

 今年はたら丸、べに子のほかに、ピン助も登場。素人目には、昨年よりは上手になったなと感じました。夜にはいくつかキャンドルが灯せる穴などがあったりして、ちょっとした細工が楽しませてくれます。

 昨年は、成人式の後、何者かに蹴り壊されてしまったとのこと。栗林クンと中学、高校と同じクラスだった私がこっそり皆様に教えましょう。彼は今は立派な商人ですが、学生時代は、ちょい悪でした。ですから、もし彼が学生の身分だったら、蹴りを入れた側だったと思います。

 そんな彼が、今や岩内をなんとかしようと、コツコツと頑張っているのですから、とてもうれしいですね。お店に行ったら、そんな話題を持ち出してお買いものをお楽しみください。 

平成24年元旦の岩内町

 岩内町は大晦日から元旦にかけて、とても穏やかな天候でした。お正月のお休みは、ゆっくり過ごされているでしょうか?

 元旦の気温は上がり、降り積もった雪も湿り気を帯びていました。初詣に出かける人たちが、鳥居を潜り抜け、岩内神社に向かっています。

 メインストリートもとても静か。ご近所さんの家の前には、息子さんや娘さんの家族が戻ってきているのかと想像できる、見慣れない車が止まっています。一方、実家に帰ったのかなと思えるお家もあります。

 そのご家庭の雰囲気はわかりませんが、きっとくつろいでお酒が入って、団欒しているんだろうなと。

 でも、世の男連中よ、気を付けたまえ。あまりだらだら飲んだくれてばかりいると、奥さま、おかぁ様には、「何もしないで邪魔だ」と言われます。弊社の女工さんたちが正月明けにいつも言うセリフです。何事もほどほどにという事ですね。女性陣にもサービスをお忘れなく。

駅前十字街の12月の風景

 いつ頃からでしょう、駅前十字街から協会病院に登る坂の手前に、お正月用のしめ縄等を販売する露店がでなくなったのは。

 12月も半ば頃になると、現在の小林書店やそのお向かいなどに、露店が数軒出ていました。その風景を見ると、ああ、師走だなぁと感じたものです。

 お店がなくなった理由は、ホーマック等の大型店で安く買えるからというのが、私が聞いた数人の分析です。そもそもしめ縄を飾るところがなくなってきましたよね。昔は乗用車のラジエターの部分にも、しめ縄を付けていた人がいました。

 写真は12月23日に撮ったものです。確かに出店はありません。それよりも、都会の皆さまはお気づきになりましたか?23日といえばクリスマス前です。この写真を見る限り、まったくそんな雰囲気もありませんでしょ。ここは岩内の中心地なのにです。

北海道新聞社会面に帰厚院の大仏の話題掲載

 12月26日の北海道新聞社会面に、岩内町の帰厚院にある大仏のすす払いの記事が載っていました。このブログでは、よく北海道新聞の記事を引用させていただいておりますが、そのほとんどが後志版に載っているものです。今回は珍しく社会面です。

 町の有形文化財指定の大仏様は、高さ6.8mあり、東京以北で一番大きい木造大仏像とのことです。できたのは、1921年(大正10年)。表現の仕方がいいですね。日本で何番目に大きいではなく、「東京以北」と言うあたり。

 岩内って、神社は大きいし、寺町通りと呼ばれる道があるくらいお寺の数も多いのです。歴史的に岩内はそれほど繁栄していた時代があったという事ですね。

 と書きましたが、実は私にとって神社・仏閣の話題は苦手なカテゴリーでして、知ったかぶりで書くことはできません。へぇ~、岩内にそんな仏像があるんだと、興味がある方は、ぜひ岩内にお越しください。ただし、帰厚院は参拝料などを取って見学させるという事はしていないと思います。お問い合わせしてから訪問してください。

いわないスキー場の経営母体の変化

 今月の日曜日は、いわないスキー場の変化について、書かせていただいております。先週までは、リフトとコースの変化について書きました。今日は、経営母体のお話について。私自身、直接携わっていませんので、詳しく知っているMさんの情報をもとに書きます。

 1980年のオープン時、スキー場の経営は、株式会社グランドレジャーという本州の会社でした。その会社が1987年撤退。

 1988年、1989年は岩内町が200万の出資金で株式会社観光開発いわないという会社を設立。次の民間会社に来てもらうまで、つなぎ運営をしました。

 1989年より、株式会社ウエストバレーが運営。塚本産業という会社が出資し、1990年クワッドリフトの建設で、入りこみ客数12万5千人のピークとなりました。スキー場名は「ニセコウエストバレーいわない国際スキー場」

 1998年株式会社ウエストバレーが撤退。同年クイーンズランド株式会社運営開始。

 2001年クイーンズランド株式会社撤退表明。クワッド、第4・5・6リフト停止。

 2002年 岩内町地域振興協会 設立、運営開始。 「ニセコいわない国際スキー場」と名前を変え、この年からセンターリフト(ペアリフト)のみとなりました。

 3つの民間企業がかかわった事になりますが、塚本産業は不動産会社、クイーンズランドはホテルゴルフ場経営などが主で、スキーレジャーのプロとは言い難かった様です。

 確かな情報ではありませんが、クワッドリフトの定期点検に数百万がかかり、その費用支出を岩内町に求めたクイーンズランド。それを拒否されたために撤退したらしいと。大きな設備をもつという事は、それだけ維持費がかかります。私たちの仕事でも一緒ですよね。

 いわないスキー場はめまぐるしく経営母体が変化していきました。このスキー場で育った子供たちは、今は子供を連れて滑りに来ています。私は、円山(観音山)のロープ塔で育ったスキーヤーです。年が明けたら、また違う側面から岩内のスキー事情をお話させてください。

 写真は12月23日オープンのスキー場、ロッジ前です。ちょっとのぞきに行ってみたら、ものすごい風でリフトは動かなかったようです。

流雪溝に排雪

 岩内町の商店街を冬に歩くと、道路の端っこに雪を落としている風景が見られます。雪国では、下水道のような雪を流す仕組みを作って、排雪をするところが増えていると思います。

 岩内の場合、海水をポンプで吸い上げ、町の主要な道路と商店街に回します。勢いよく流れる海水が、雪を融かしながら運んでいくのです。ただし、地区によっては、利用できる時間帯が違います。全町で一斉に使ったら、詰まって水があふれ出るなんてことになるからです。

 弊社の前の道路にはこの流雪溝がないので利用はしていませんが、流雪溝が前にあるからと言って、皆が皆利用しているようには見えません。除雪、排雪というは、マナーをどのように考えるかで変わってきます。

 商店街も、空き店舗が増えていますので、その部分だけが除雪がされていなくて、歩きにくいなんてこともあります。きっと、岩内だけではない話なのでしょう。でも、この流雪溝、すごい仕組みですよね。何か観光に役立てる事はできないかな?