カテゴリー別アーカイブ: 岩内町の風景

線路跡地の畑

 岩内線という国鉄の線路跡地のお話は、このブログでも何度も登場していますね。冬は雪捨て場となる空き地。雪が融けるとご近所さんたちの家庭菜園、お花畑に変わります。

 我が家のご近所さんは、とても器用な方で、いろんな野菜をこの空き地を利用して作っています。ジャガイモ、大根、トマト・・・。畑の隅には作業道具?をしまっておく小屋まで作ってしまっています。

 ここまで一人で作ってしまうと、セミプロですね。お仕事もリタイヤして、だらだら過ごさず、こうして自分なりに畑づくりを楽しんでいるのです。

 この土地、実は町の土地のはず。ここまで手を入れて立派に使ってくれると、ありがたいですね。こんな器用な方が、何人もいるのです。収穫の時期は頂き物がすごいですよ。

初夏の気配

 岩内は6月に入っても気温は上がらず、天候もぐずついている日が多いようです。ここ数年、「梅雨がないのが北海道だ、6月はからっとしていて気持ちいい」なんて言葉は、言えなくなりました。だんだんと梅雨のような気候になっていくのでしょうか。

 写真を見ていただくと、岩内岳(左)と雷電山(右)の間に少しだけ残雪がありますが、ついこないだまで真っ白な風景も、濃い緑色に変わってしまいましたね。

 いつものことですが、携帯カメラなので遠景に写ります。実際は雨が空気中のほこりを落としてくれた後の、山の風景はとても近くに見えるのです。

 この場所、わかりますか?御崎地区の海岸沿いの道路です。シケの時は、この道路は波が上がってべちゃべちゃになります。この地区の車は、錆びるのが早いと言われています。こんな穏やかな日の風景では想像できないでしょうがね。

 この道も私のランニングコースの一部です。水銀灯の上にゴメ(かもめの一種)が一羽じっと私を見守っています。見てたって、食い物は出ないぜ。

旧岩内協会病院

 現在の岩内町にあるスーパーのラッキーの場所は、昔は岩内協会病院が建っていました。現在の協会病院は、この坂を登りきった、高台小学校跡地にあります。

 岩内史年譜によると、昭和41年(1966年)11月落成。総工費2億1千万。鉄筋コンクリート4階建。これをご覧になっている方は、この協会病院にお世話になった事があるか、お見舞いで入った事があるなど、いろんな思い出があるのではないかと思います。

 夕方5時過ぎになると、この協会病院からたくさんの若い女性が、高校の制服を着て出てきました。今で言う看護助手の人たちだと思うのですが、彼女たちが岩内高校の定時制に通うために白衣から「変身」して出てきたと思います。 ペッチャンコの学生カバンと足首まであるスカート。俗にいうツッパリスタイルですね。

 今ある新しい岩内協会病院はとても立派です。でも、他の地方自治体の悩みと一緒で、さまざまな問題を抱えています。難しい話は違うところで。ラッキーでお買い物をされる方は、この写真を思い出して、時代の流れを感じてみてください。

東山墓地の菜の花

 岩内には墓地が東山と敷島内の2つにあります。この写真は、東山の墓地です。今、菜の花が満開になって咲いています。青空ではないのが、ちょっと残念ですがご勘弁。

 ここは、岩内の海を見渡せる絶好の位置にあります。これからは漁火の季節になり、船の明かりがはっきりと確認できます。

 私が中学校に通っていた時は、このお墓の真ん中を通って通学していましたが、今は通学路ではないということで、ここを通ることはできないとのこと。

 子供の頃はこんな菜の花や、普通の風景が、まったく記憶になかったのです。しかし不思議なものですね、年を取ってくるとこんな些細な風景が、「綺麗だ」と素直に言えるようになりました。

岩内町公民館

 岩内町郷土館の昔の岩内町写真展のまた違う一枚の紹介です。前回は、高台小学校でした。今回は、公民館です。写真についていたコメントをそのまま引用させていただきます。

 『昭和31(1956)年、岩内大火復興事業として建設されました。大ホール(舞台・2階席あり)と会議室・和室・図書室・映写室がありました。この種の建物は、当時後志で岩内だけでしたので、後志管内の多くの催しがこの会場で行われました。平成元年の岩内文化センターオープンにより閉館しました。』

 私の子供の頃の公民館のイメージは、薄暗くてジメジメしていたような建物という印象です。岩内幼稚園のお遊戯もここで発表した記憶もあります。私がお遊戯?笑っちゃうでしょ。

 公民館があった場所は、今の岩内食品の北側で、今は駐車場になっていると思います。写真は角度が下から撮ったものなので、まっすぐには見えませんが、ご勘弁を。

岩内町立高台小学校

 先日、郷土館へ行き、岩内の今昔の写真展があったので、そこに展示されていた写真を許可をいただいて、撮りました。いくつかをこのブログで紹介します。

 最初は岩内町立高台小学校です。私の母校です。昭和52年(1977年)、西、高台、島野小学校が統合され中央、西小学校の2校の新校舎となり、廃校となりました。

 高台小学校の所在地は、現在の岩内協会病院が建っている場所です。写真の左の入り口が生徒の玄関。右は職員お客様玄関だったと記憶しています。私が低学年の頃は、外壁にツタが生い茂っていて、今で言う校舎は緑化されていました。高学年になると、ツタはすべて取り除かれ、ペンキを塗っていました。

 廊下はもちろん木造、中庭があって始業前の時間はそこで遊び、昼休みは大きなグラウンドで遊ぶというのが常でした。時代によって、その使われ方も違っているでしょうが、この学校に通った皆さん、懐かしいでしょ。

ニセコパノラマラインの残雪

 岩内とニセコを結ぶ道を、道道66号岩内洞爺線と呼びますが、要するに岩内とニセコを結ぶニセコパノラマラインのことを言います。ニセコから洞爺までは国道と重用しています。よくわからないですよね、道路の名前の正式名称の基準が。

 さて、22日の日曜日は洞爺湖マラソンに行ってきました。このお話は29日(日曜日)のブログに書きますので、しばしお待ちを。

 パノラマラインが開通してから、まだ通っていなかったので、往復をパノラマライン経由にしました。不思議なもので、岩内側はガスがかかっていて、視界はあまり良くなかったのですが、蘭越ニセコ側はとてもいい景色が広がっていました。

 私は写真で素晴らしい景色を紹介するのはいかがなものかといつも思います。写真では伝えきれない、その場でしか感じられないものがあるからです。空気や肌にふれる感触、目の前に広がる風景を見て、五感がありとあらゆる反応を示すその状態は、その場でしか感じられないものです。

 ぜひ一度パノラマラインをドライヴで訪れてみてください。山が雲に覆われていても、実は雲海が広がっていたなんてこともよくあります。もちろん、パノラマラインを経由するときには、岩内の街の散策もお願いします。いわないの道の駅にお立ち寄りの際は、一八の商品をお土産にもお忘れなく。

唯一の一方通行

 岩内町は小さな田舎の町です。でも、こんな田舎でもこんなものがあるの?とびっくりするものがいくつかあります。このブログでは、少しずつそんなものを紹介したいと思っています。

 岩内町の町は、港を中心とした扇状の街並みになっています。札幌のような碁盤の目のような縦軸と横軸が等間隔になっているのではなく、ちょっと変形しています。そのために、港付近は斜めに交差する場所がいくつかあります。

 写真の一方通行はどこにあるかおわかりでしょうか?岩内に住んでいても、この近くでなければ、わからないかもしれませんね。ヒントは夏目漱石の石碑の近くです。

 なぜ一方通行かというと、変形交差点の中にこの小路があるのです。ですから、交差点の中からこの道に入るのは、OK。でも逆は危ないのでダメ。言葉で表現してもピンときませんね。現地に行ってご確認ください。岩内への旅行者のみなさん、こんな不思議な場所をぜひ探索してみてください。

 私の知る限り、岩内町の一方通行は、ここだけと思っていますが、もしもまだあったら教えてください。

岩内町旧役場ポーチ

 岩内町の旧役場のポーチのお話は、違うブログ等を検索していただけますと、いろいろと書かれていますね。

 ポーチってなんぞや?と思ってしまいます。玄関の屋根だと言うのですが、円形で本棟とどのようにつながっていたのだろう?と不思議に思うのは、私だけでしょうか?

 昭和32年に役場の建て替えに伴い、このポーチだけを移設したとのことです。子供心にこの円形の意味がまったく理解できずに大人になってしまいました。

 その昔の役場の写真等が出てくると、私の中のモヤモヤもすっきりしそうなのですが、どなたかお持ちでは?

岩内町の桜

 ぐずついた天気が数日続いていましたが、11日は久しぶりに青空が出ました。気がつくと桜も葉桜になっているところが多かったです。

 岩内町の桜が綺麗な場所としては、いろいろあると思いますが、スーパーの岩内食品から神社にかけての通りがいいと思います。パックに岩内岳があり、鳥居がいいアングルで見ることができます。

 10℃そこそこの肌寒い気温が続いていましたが、桜は咲いてしまうのですね。気温は低くても着実に季節は変化しています。何日かの雨で、岩内スキー場のコースの白い筋が消えました。

 お花見を桜の下で行う本州の方たちにはわからないでしょうが、岩内の観桜会は建物の中の宴会場で行います。だれもその時は桜なんて見やしません。