カテゴリー別アーカイブ: 日常のこと

岩内町職員が身欠にしんで町おこし中

 平成25年7月19日の北海道新聞後志版の中にある「ひと後志」というコーナーに、岩内町職員の玉田さんが取り上げられました。

 彼女は身欠にしんで岩内町の町おこしをしようと、数年前から行動をしています。昨年、一昨年の怒涛まつりでは、にしん串焼を作り、売れるわけないと言われたのに、予想外の早期完売をしたという実績を持っています。

 今年の春から、地場産業サポートセンターに異動。先日ご紹介をした岩内高校生のニシンサンドなどの制作にかかわり、生徒さんたちの道しるべ役をしています。

 この数年私もいろいろなところで彼女とかかわってきました。熱意が高じて、回りに誤解を生じたり、空回りもしていました。でも一歩一歩前進しています。

 新聞の最後に彼女の言葉が載っています。「手応えはまたまだ。どんなことがあっても、続けることが何かにつながる。」なんか、私の言葉を使われてしまったなという感じです。最近では珍しい存在の公務員。みなさんも応援してあげてください。

昔ながらの「はたき」

 しばらくご無沙汰しておりました、一八の「昔懐かしシリーズ」。勝手にシリーズ化してしまいましたが、今日ご紹介するのは、「はたき」です。

 皆さんのご家庭には「はたき」は存在するでしょうか?私がはたきと言われてすぐに想像するのは、大仏様の大掃除に見られるシーンで使われている様子ですね。

 写真は弊社で昔使用されていた「はたき」です。弊社事務所は毎朝職員が仕事に入る前に掃除をしてくれていますが、さすがにこのはたきは現在は使用していません。

 ご家庭では静電気を利用したものや、掃除機にアタッチメントをつけるなどのものが主流のようですね。でも、この写真をよくご覧ください。柄の部分の天然素材と再利用の布は、何とも弊社らしいと感じる逸品ではないでしょうか。

3年連続投稿です(その3/3)

 3年連続毎日ブログ更新の話題、日曜日を挟み、その1、その2に続き、今日で最後です。

 何事も大きな事を打ち上げ花火のごとく派手にすることが苦手な私。自身に才能がないなら、人よりも多くやればいい、多くの時間を使えばいい。こつこつ小さな事を積み上げればいい。そういう考えから、このブログも始めました。

 ツイッターやフェースブックもありますが、流れ去る情報よりも保存版としての情報を意識しています。何年かしてからでも、今まで私が書いた岩内についての話題がそのまま利用してもらえれば何よりと考えます。

 コメントをいただいた皆さまは、岩内の事をとても懐かしみ、愛している事を感じました。そんな皆さんへの橋渡しを出来た事が、3年間続けて一番うれしい事です。

 今後は 『毎日更新』 ではなく、書けるときに書くようになると思いますが、情報発信だけは続けていきたいと思います。「石の上にも3年」の言葉通り、今は実践出来たことを嬉しく思います。願わくば、このブログをきっかけに、売上が伸びますように~。

 写真は6月7日撮影の栄地区から見た夕陽、岩内港と積丹半島(右)。

3年連続投稿です(その2/3)

 昨日に続き、毎日ブログを更新して3年間のお話です。

 このブログを書くのは、会社事務所で皆が帰った後で、私一人になったとき。すらすら出るときもあれば、なかなか言葉が出ない事も。長すぎては読んでくれないし、かと言って短ければ言いたいことも言えない。

 予約投稿というシステムで、更新する時間は夜中の0時01分と決めています。一番大変だったのは、一週間の出張に出るとき。出張先ではブログの投稿をしている暇がないので、日曜日にあらかじめ1週間分の話題を予約投稿で入れておきました。

 写真を載せるのは本当は意に反することで、言葉だけで想像してもらいたいと思っていました。しかしこのネット社会でそれは無理というもの。まして、私の文章の表現力が乏しいとなれば、画像の力は必須条件となります。

 携帯カメラも確実に高性能になっています。撮った画像をそのまま載せると重くなるので、縮小してからアップ。その作業も今ではすっかり慣れて簡単に出来るようになりました。

 写真は敷島内の海岸から6月6日撮影したものです。この話題、あと一回お付き合いを・・・・  

3年連続投稿です(その1/3)

 このブログの更新も本日をもって3年連続となりました。ブログの最初の投稿は3年前2000年の4月30日からですが、慣れるまでは投稿しない日もありました。調べてみると、連続投稿の初日は2000年6月7日でした。

 お金をかけず情報発信をする。岩内町の現在や昔の事などを知る生の情報はあまり存在しません。岩内出身者の方や在住者、岩内に興味を持っている人などに、情報を発信出来ればいいな。ついてはその人たちに弊社の商品のPRになればいいなと思って始めたのが最初でした。

 正直、ネタに困ったこともありました。特に冬はイベントものが少なく、工場に遅くまでいてへとへとになって事務所に来てPCに向かうも、頭がぼっ~として何も出てこない。

 それでも何とか続けてこられたのは、読んでくれる人が確実に増えているからです。私のつたない文章をほぼ毎日読んでくれる友人もいます。コメントをいただく方はもちろん嬉しいですが、書き込みをしなくとも読んでもらっていることが何よりの励みでここまで続ける事ができました。

 この話題はもうちょっと書きたいので、明日につづく・・・・

 写真は岩内の市場からの岩内岳(6月4日撮影)を望む

健康診断でした

 毎年今時期に健康診断があります。弊社は岩内海産商協同組合という組織に属していますが、この組合で毎年水産加工の同業者で一斉に行います。

 昔、私が東京でサラリーマン時代の会社では、胃カメラ用バリウムを飲む先輩は、ごくわずかしかいませんでした。当時の会社の平均年齢は30歳未満だったからです。その先輩を「○○さん、バリウム飲む年?」なんて冗談で言っていたものです。
 
 再検査の必要ありなんて書かれた通知をうけるものなら、会社中の噂話になってしまうほどでした。でも、今のこの業界では、再検査の通知なんか当たり前といった感じです。

 加齢とともにいろいろ出てくるのは、当たり前。皆さま、とりあえず、健康診断だけはしっかり受けておきましょう。一八のおいしい商品を食べることができる幸せを、ずっと持ち続けてくださいね。

古い飲料の看板

 田舎道を走っていると、木造の倉庫などの壁に、古い飲料の看板などがさびた状態で残っているのを見かけませんか?

 写真は岩内町のあるところで見つけたコカコーラの看板です。昔、ロイヤルクラウンコーラなんてありましたよね。青の看板でRCとデザインされたやつ。さすがに今は見かけることはありませんが、みなさんはどんな看板を想像しますか?

 20年ほど前は、貸金業の「マルフク」という看板が多かったですね。もっと昔からの定番と言えば、「オヤコワタ」。学生服の菅公(カンコー)。などなど。

 田舎へ車を走らせればそんな看板がたくさん出てくると思います。岩内へドライブで車を走らせながら、昔の看板の再発見なんてしてみませんか?

岩内高校で講話・・・惨敗

 16日、岩内高校2年生を前に、講話を依頼されてお話をしてきました。とはいっても、今まで生徒さんを前に一度もしゃべった経験はなく、結果として支離滅裂な講話になってしまいました。

 私は「にしんのおかげ」の開発や省エネ大賞などで、いろいろと新聞に取り上げられたりしているので、先生が興味があったこと。教育者の堅い講話ではつまらないということから私に話が舞い込んだようです。

 持っていったシナリオは、最初の緊張で見事に打ちのめされ、時間配分も全くダメ。何を話していいのかわからなくなってしまいました。俗にいう、「頭が真っ白」の状態ですね。

 開き直った最後に、上手にお話をできなかったことを詫び、「経験をして何事も上手になっていく。怒られ、恥をかき、それらの経験が君たちを成長させる」と締めくくりました。今日の私のように。

 相手ある会話だとそれなりにしゃべることができるのに、一方的にしゃべるのは本当にダメな私。生徒さんたちには貴重な時間を使ってしまい、申し訳なかったと反省しています。

 個人的にはいい経験をさせていただきました。機会を与えてくださったF先生他関係者の皆さま、ありがとうございました。写真は岩内高校のホームページからお借りしました。

端午の節句は『べこ餅』

 端午の節句の食べ物は、岩内町では柏餅ではなく圧倒的に「べこ餅」。東京出身の妻が岩内に来てカルチャーショックを受けたいつくかの中に、この「べこ餅」の存在があります。

 私はべこ餅が端午の節句に食べるものというのは最近気がつきました。それほど岩内の人間にとっては、「べこ餅」は身近な存在です。

 白と黒のツートンのものが多いですが、岩内では黒一色のものが多いと思います。牛の事を「べこ」と言うので、べこ餅の由来は白黒のホルスタインからきているという見方が一般的ですが、岩内の一色の事を考えると、べっ甲からの由来ではないかと思ってしまいます。

 写真は岩内の老舗さんまるの団子屋さんのべこ餅。経木に包まれ、本物の笹の葉の上に乗っていて、これぞ伝統といった雰囲気を出しています。形が葉っぱ模様ともう一つ丸みを帯びたもの。どうしてかわかりませんので、今度さんまるさんに聞いておきます。

 どう?食べたくなったでしょ。シンプルな味がなんとも言えないです。おいで、岩内に。

三國連太郎さんと岩内町

 4月16日の北海道新聞後志版には、14日に亡くなった三國連太郎さんが映画「飢餓海峡」の舞台として岩内でロケをしたことを振り返り書かれています。

 掲載されている写真は、撮影が行われた1964年のもの。今から49年も前の三國さんの姿なので、最近の三國さんからはちょっと想像しがたいです。

 飢餓海峡のことは、私が申し上げるまでもなく、皆さんのほうが詳しいでしょう。実際にあった1954年の岩内大火と青函連絡船洞爺丸転覆事故を題材にした水上勉氏の小説を映画化したものです。

 私の苦手な芸能の話題ですので、これ以上は墓穴を掘ることになります。興味のある方は、岩内町郷土館へ足をお運びください。詳しい資料がたくさん展示してありますし、館長さんにお声をかければ、詳しく説明もしてくれると思います。

 でもって、帰りは三國さんが食べたかどうかわかりませんが、当時はたくさん製造していた弊社の “みりん干” しをお土産に、ですね。