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八興会館 その8

 私にとって、書かねばならないのに、書くことができなかった八興会館の話題。とりあえず連載は今回で終わりとさせていただきます。本来ならば、一人ひとりのお世話になった先生たちの事をもっと取り上げ、礼を尽くすべきでしょう。

 今回の連載をするにあたり、元管理人の大泉さんからいただいた資料はとても助けになりました。そんな大泉さんが残してくれたものを最後にご紹介させていただきます。

◆小笠原軍人先生の一言 ~ 「暑中稽古は寒い冬に耐えれるため。寒中稽古は暑い夏を耐え抜くため」

◆「団結力が生まれた」 ~ 団体戦の試合では、勝つ人、負けた人、で俺がお前がで心配でした。それがだんだんと絆が深まっていく姿勢は誇れるようで、素晴らしく思いました。

◆岩内新報の記者川島様が八興会館に関する記事をたくさん書いてくれました。

◆柔道、剣道の鏡開きには、お汁粉用の「あん」を斉藤菓子本店さんから寄贈してもらいました。

『八興会館は、先生方、豆剣士の一生懸命稽古をした道場だと思います。寒い日、暑い日に元気に来て育ててもらった道場だと思います。師匠、弟子、先輩、後輩、友情が年月をかけて増えたと思います。私も一員として育てていただいて感謝でいっぱいです。八興会館、館長さん、ありがとうございました。』 大泉京子

八興会館に関係した皆さま、育った皆さま、ご指導くださった先生、すべての人に感謝申し上げます。ありがとうございました。

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 その7

 

『八興会館』 その7

 八興会館の管理人である、大泉さんからお借りした資料に、『財団法人八興会館 創立30周年記念祝賀会』の記念誌があります。その中には「30年のあゆみ」というタイトルで、創立の昭和38年2月から平成5年の9月までの子供たたちが残した、さまざまな大会での入賞の記録などが載っています。

 今日は、その中の一部に昭和40年9月1日発行の「八興会館のあゆみ」より記載してある、館長である紀伊右エ門の昭和38年八興会館落成式のあいさつ文をそのまま転記いたします。

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 紀 館長 挨拶

 一八の商号で皆様から多大のごひいきに預かっております紀でございます。

 本日この八興会館の落成式に、ご多用のところわざわざご臨席くださいまして、ご祝詞やご祝儀を頂戴いたし、まことに有りがたく厚くお礼申しあげます。

 一八の親爺が、商売に関係のないこのような大それた会館建設などをどうして企てたのか、さぞかし皆様には不思議に思われたことと存じますので、いささか平素感じております一端を申し上げたいと存じます。

 池田首相の真似ではございませんが「国づくり」の基礎が「人づくり」であることは申すまでもございません。それには住みよい環境と施設を与えて、明るく楽しい健全な「場」で、次代を担う子供をすくすくと成長させてやりたいということは独り私のみの願いではございません。然るに岩内の町は、教育上よい施設や環境に恵まれているとは、決して申されないのであります。

 こういう点から、私は先年も大浜海水浴場の施設に微力ではございますがいささか努力いたしました。また、伝馬船十余艘を備えつけ、これらのご利用に資したり、昨年は円山のスキー小屋の建設にも協力させて頂いたわけであります。

 しかし、何と申しましても、年間を通じて利用ができ、かつ日本古来の武道の練磨によることが、肉体と精神の両方向の修養に一番効果があるものと考え、道場の建設を思い立った次第であります。幸い町内有志の方々や、その道の専門の方々のご支援をえまして、昨年11月この会館の建設に着手し、本日落成して開館の運びに至りました。

 もとより私は、裸一貫で遠く佐渡より渡ってまいりました風来坊でありまして、何の教養も資力としてございません。従いまして、今後の維持運営や青少年の育成につきましては、全くの素人でわからないわけであります。何卒この上とも、町長さん始め町議会議員、町教育委員会、PTAその他町有志の方々の特段のご支援とご指導を仰ぎまして、この会館がますます充実され、青少年の健全な育成に多少とも寄与できますことを祈念する次第であります。

 本日は私の多年の夢の一端が現実しました喜びと感謝の気持ちを申しあげましてお礼のご挨拶といたします。まことにどうも有りがとうございました。

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 その6

『八興会館』 その6

 八興会館に集まった子供たちは、熱心な先生たちの元でどんどんと強くなったと聞きます。いろいろな大会にも参加しては賞をとり、またそれが励みとなって練習する。

 当時の共和村(現共和町)などからも有段者が来て指導を協力してくれたとも言われています。また、警察に勤務する有段者も。どんなスポーツでもそうですが、上手な人が目の前にいれば、その人のようになりたいとも思うでしょうし、技を真似てみたり、存在そのものがよきお手本となりますね。

 ついぞやは、紀伊右エ門の出生の地である佐渡にまで子供たちを連れていき、親善試合を行ったこともありました。そんな人ですから、子供たちには“館長さん”と呼ばれ、慕われていたと思います。

 ただ身内にとって残念ながら、紀伊右エ門の八興会館に対する思いは伝わっていませんでした。世に名を残す人の影には必ず、その人を支えた人たちがいます。子供ながらにもそんな周りの人たちの苦労を目にしていました。孫である私にとっては、八興会館に行けば、「館長さんの孫」と呼ばれることに抵抗感を覚え、近寄るとよく思わない子もいたことも確かです。

 私は、八興会館に足を踏み入れなかった孫です。この八興会館について書く資格はないのかもしれません。八興会館が取り壊された今、祖父である紀伊右エ門に対し、私が唯一できることは、八興会館のことを文字として記録しておくことであるのではないかと思い、綴っています。

 写真は、弊社事務所2階から出てきたものです。柔道を習っている子供たちが真冬に雪の上をはだしで走っているんです。見ているだけで冷たい。でも、子供たちの顔がとても生き生きしていますね。 

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昭和10年代の一八

 また凄い写真が出てきました。推定昭和15年~25年のものと思われます。一八興業水産株式会社の前身、一八紀伊商店時代です。

 二つに並んでいる工場には、右側から読んで、「協力一致」「生産増強」と書かれてあります。従業員はたくさんいますね。写真には写っていないけれど、もっと従業員がいたそうです。それも18歳などの若い子が多かったとのこと。今とは雲泥の差です。

 この頃は、軍需工場だったらしいです。と言っても、武器を作るのではなく、政府からの指令による、とろろ昆布製造とのこと。看板には、「横須賀、呉東商店指定工場」と書かれてあります。

 写真で気になったのですが、屋根の上の丸いものは煙突かな?と現社長に聞くと、水がめで、火事になったらこの水を使って消火するためのものらしいです。今でいうスプリンクラーなのですね。

 社長の記憶では、この写真を撮った時代の後、二つの工場をつなげるように大きな屋根が付けられたそうです。今の建物でいえば3階建てのような大きさになったのですね。ですから、遠くから見ると、この工場はひときは目立った大きさだったと。

 昭和29年の大火によってこの建物は全焼。手前は鉄道の線路です。その場所から推測すると、大火後に道路拡幅のために、協力一致と書かれた工場の半分くらいの土地は、没収されたようです。

 大火によって全部焼けてしまったのに、なぜこの写真が出てきたのでしょう?焼けなかったところに住んでいた人が、この写真は一八が持っているべきだと先代に渡してくれたようですが、確証はありません。

 郷土館もびっくりの写真。写っている方のほとんどは亡くなっていると思います。もしも、これは私だと記憶にある方がいらしたら、ご一報ください。

『八興会館』 その5

 八興会館が一番素晴らしかったのは、紀伊右エ門が私費で建設をしたことではありません。紀伊右エ門の志に賛同した人が人を呼び、金銭とは無縁の関係で組織されていったことにあると私は思います。

 道場ができて、そこで教える先生は、ボランティアでした。また子供たちからは月謝なるものは取らなかったと聞いています。各地で大会があると、紀伊右エ門が無償で連れていく。八興会館で行われる大会の景品は一八がスポンサー。純粋に子供たちが剣道柔道に打ち込める環境を作っていたのですね。

 先生方は日中の仕事でお疲れなのにもかかわらず、熱心に指導してくれたとだれしもが口をそろえて言います。その熱心さが子供たちの稽古にかける気持ちを引き出していたのではないでしょうか。すべてがお金で動く現代とは明らかに違う、“人を育てる”場所であったと思います。

 管理人の大泉さんから教えていただいた、気弱な小学生のお母さんの言葉を紹介します。「人より早く来て、道場の隅をずっと板ふきをする。人のしていない事をして、心が強くなってほしい」

 指導された先生、協力していただいた父母のみなさん、改めて申し上げます。八興会館を支えてくださり、ありがとうございました。写真は昭和58年7月10日、岩内中央小学校で開催された、岩内八興会館二十周年記念剣道大会です。

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 その4

 

第48回全国水産物大手荷主・荷受取引懇談会

 一般社団法人北海道水産物荷主協会という組織が行っている懇談会が先週、札幌でありました。岩内からは、弊社の他に2社が加盟しています。

 懇談会は、今年は「食料危機が日本を襲う」と題して、マスコミでもよく出る、柴田明夫さんの講演を拝聴。その後一連の行事の後に、飲食しながらの懇親会へと移ります。ただ、近年は形骸化し、懇談会の意義を疑う人もいることは確かです。

 発足した48年前と言えば、全国的に市場を整備していった時代でもあります。国の指針により、地方都市では卸問屋が合併などして一つの卸会社を作り、それが市場となって集荷の機能を高めていきました。

 ですが、流通の仕組み、冷凍保管の改善などで、モノの動きが、市場経由ではなく、大手の流通業者などによる比率が年々高まるようになりました。

 世界の人口がこのまま増え続けると、日本は食糧難になってしまう。抜本的な食料資源対策を・・・・という講演内容でありました。確かにその通りだと思うのですが、果たして聞いていたどれだけの人が、危機感を持っているのでしょう。

 ちょっと真面目くさった文章になってしまって、ごめんなさい。

『八興会館』 その4

 昭和38年に建設された八興会館。当初は剣道と柔道が半々のスペースで使っていました。数年後に本館の北隣に柔道場が建設されました。2階は卓球の台が数台並んで、ここは一般の人にわずかな料金を取って使わせていました。

 道場としての利用だけでなく、公共の施設として利用されてたのをご記憶にあるでしょうか?それは選挙投票所でした。今は大浜地区の人たちは、文化センターまで行って投票をしていますが、平成18年の取り壊しまでの間は、八興会館がその役目を担っていました。

 お葬式会場としても3度使われています。紀伊右エ門の妻、紀ナミが亡くなったときの葬儀で使われた時は、八興会館に入りきれない人と花が並んでいた記憶があります。次に管理人である大泉さんの息子さんがスキー事故で亡くなった時。最後は、平成3年9月館長である紀伊右エ門本人の葬儀でした。

 建物は隙間だらけの安い作りではありましたが、「道場の床は先生方と先輩方の汗と涙が染み込んだ宝物」という事を生徒のお父さんが言ってくれたと、大泉さんからお聞きしました。

 写真は岩内柔道会の創立50周年記念誌に載っていたものを使わせていただきました。上が開館翌年。下は本館ではなく、柔道の別館での写真です。胸に「八興」という刺繍が入っていたのですね。

『八興会館』 その3

 昭和38年に私費で建設された八興会館。運営も町に頼らず、私費で行った全国でも類を見ない道場。一般的に考えるのは、余裕のある資金を使って建設したと受け取られがちですが、それはまったく違います。
 
 昭和29年の大火後、会社の経営も厳しい状態になっていました。個人的な蓄財などあるわけがなく、それなのにどこから当時の450万というお金を工面できたのでしょう?

 建設当時、息子である紀八郎氏(現社長)は一八で専務として働いておりました。まともに考えれば、建設を賛成する身内などいるはずがありません。身内を説得するなどという方法を取らず、半ば強引に当時の専務を内地(本州)に出張に出させ、出張先へ次から次へと次の訪問先を指示し、1カ月近く帰って来させなかったとのこと。
 
 専務が帰ってくると、八興会館はほぼ出来上がっていたというのです。会社には田村さんという金庫番がいて、紀伊右エ門の強引な手法を裏で支えておりました。当時の金銭感覚では、借金を含めて個人資産も会社の資産も同じようなもの。あくまでも私の推論ですが、社長への貸付という形で、会社が建設資金を立替え、返済は社長の給与をそのまま当てたのではと思います。

 それゆえ、質素な生活でしたし、私たち孫は世間に当たり前のようにある祖父から孫へ何かを買ってもらったり、お年玉をもらうなど一切ありませんでした。私が祖父からもらったものは、唯一小学生のときに九州の出張先から送られてきた絵葉書1枚だけでした。

 「志を先に持って突き進め、金は後からついてくる」と私には見えます。高度経済成長という時代背景が後押ししてくれたのでしょうが、「志」が輝いていたからこそ、それに共感する多くの人たちによって支えられた八興会館でもありました。

『八興会館』 その2

 私の祖父である紀伊右エ門は15歳の時に、新潟の佐渡から北海道に渡ってきました。幼い時に両親と死別。祖父母に育てられたと聞きます。
 
 祖父母には、「これからは満州か北海道の時代だ。どちらかを自分で選んで行きなさい」と言われたそうです。それで北海道に渡ってきてくれたのですから、今の私がいるのもその時の紀伊右エ門の選択に感謝しなくてはなりません。

 紀伊右エ門は、祖父母に「将来は人のためになる事をしなさい」とも教育されてきたらしいです。その人のためということが、八興会館建設によって、青少年の健全育成へとつながったのではないかと私は推測します。

 紀伊右エ門自身は剣道、柔道とはまったく無縁でした。建設した後の運営を町に一任するほうがよいと回りから勧められたのを振り切り、自ら館長に就任し、その維持運営も私費にて行ってきました。

 それほどまでの熱意とはどんなものであったのか、孫である私にも理解ができません。金銭的な余裕などまったくないのに、誰も真似のできないことを実行した、とんでもない人物であった事は確かです。

 

『八興会館』  その1

  岩内出身の皆さん、八興会館(はっこうかいかん)という名前を覚えていますか?大浜海水浴場に行く途中にあった道場です。いわゆる武道館なのですが、この建物は弊社の先代、紀伊右エ門が私財を投じて建設したものでした。当時の費用で450万と記録されています。

 設立は昭和38年2月9日。木造モルタル一部2階建の117坪。柔道道場33坪、剣道道場33坪。住込みの管理人室、更衣室、浴室があり、柔道着50着、剣道防具45組を取りそろえてのスタートでした。

 私財を投じて設立した背景は、青少年の健全育成。昭和29年の大火後の岩内は皆財産を失い、大変な思いをしていました。言葉は悪いのですが、不良と呼ばれる悪の道に踏み出す子も多く、紀伊右エ門は武道を通して子供たちを育てたいという気持ちから、八興会館の設立に至りました。

 八興会館のお話は、あまりにも大きな話題なので、いままでどこから手をつけて良いのやらわかりませんでした。先日、長い間管理人を引き受けていただいていた大泉さんから資料を受け取ったので、何回かに分けて書かせていただきます。写真は、平成18年取り壊し直前のものです。