月別アーカイブ: 2011年12月

流雪溝に排雪

 岩内町の商店街を冬に歩くと、道路の端っこに雪を落としている風景が見られます。雪国では、下水道のような雪を流す仕組みを作って、排雪をするところが増えていると思います。

 岩内の場合、海水をポンプで吸い上げ、町の主要な道路と商店街に回します。勢いよく流れる海水が、雪を融かしながら運んでいくのです。ただし、地区によっては、利用できる時間帯が違います。全町で一斉に使ったら、詰まって水があふれ出るなんてことになるからです。

 弊社の前の道路にはこの流雪溝がないので利用はしていませんが、流雪溝が前にあるからと言って、皆が皆利用しているようには見えません。除雪、排雪というは、マナーをどのように考えるかで変わってきます。

 商店街も、空き店舗が増えていますので、その部分だけが除雪がされていなくて、歩きにくいなんてこともあります。きっと、岩内だけではない話なのでしょう。でも、この流雪溝、すごい仕組みですよね。何か観光に役立てる事はできないかな?

昭和38年の会社所有のトラック

 懐かしい?会社のトラックの写真が出てきました。日付が昭和38年9月11日となっていますので、私よりも、1歳年下です。私の記憶では、定かではありませんが、ずいぶん乗り心地が悪かったような。

 まだ街中はアスファルトではなく、ほとんどが砂利道でした。走っている車は乗用車は少なく、若い人にはわからないでしょうが、3輪車のトラックがありました。故障なんてしょっちゅう。エアコンなんてとんでもない。そんな時代でした。

 その頃、町にはまだ荷物を運ぶのに、馬がいたのです。夏は荷台に車輪をつけて。冬はソリになって引いていました。弊社の近くにも馬を飼っていて、運搬作業をしていたところがあったのを覚えています。

 さて写真のトラック。ドアには広告。文字は前から書くために右から左へ読む形。でも、電話番号の数字は、左から右へという変な書き方です。「自家用」と書いてありますが、昔は表示義務があったようです。カッコ悪いですよね。

 このトラックが納車のときは、たぶん一大イベントだった事でしょうね。価格はわかりませんが、その分の働きは間違いなくしてくれた事と思います。この次の年に東京オリンピック。時代は高度経済成長へ。車社会へと急激に変化していきました。

 

雪捨場が動き出しました

 写真は、岩内の地場産業サポートセンター裏手にある、町の雪捨て場です。ここには、町道から排雪された雪を積んだダンプカーや一般の事業所などから雪を積んだトラックがやって、雪を降ろします。

 ここには、常時キャタピラーをつけたブルドーザーが待機していて、降ろされた雪を上手に踏み固めながら山を作っていきます。まだシーズンが始まったばかりなので、雪山にはなっていませんが、ドカ雪が降るとダンプカーは途切れなくやって来るので、どんどん雪山は大きくなっていきます。

 後ろは海です。まだ海が見えますが、なぜ海に直接捨てないのか?と思いますよね。白い雪も融けるとかなり汚れています。ゴミも結構紛れているので、もしも海に雪を捨てるとシーズンが終わると、かなりのゴミが海の中にあるという状況になります。

 雪捨て場も、どこでもいい訳ではなく、雪が融けるとその排水によって、近隣に迷惑を及ぼさないかなどを考えられます。よって、海のすぐ近くの広い土地が選ばれると思います。専門家のみなさん、この考え方でいいのですよね?

 雪国の皆さんにとっては、当たり前の話題で申し訳ありません。この除雪、排雪ということは、雪国にとって経済的に非常に重要な位置を占めています。子供にとっても、ばあちゃんの家の雪かきをすることによって、お駄賃をもらえるのですから・・・

いわないスキー場のリフトの変遷

 先週日曜日は1980年にいわないスキー場がオープンし、西側3本、東側3本のリフトが設置されたところまでお話しました。

 実は、私は1980年から1991年夏まで岩内には在住しておらず、実際の詳しいスキー場の状況がわかりません。人伝えによる情報で書きますので、もしも間違った情報だと思う方がいらっしゃいましたら、教えていただければ何よりです。

 西側3本のリフトとそのコースは、1988年に運休となり、再利用されることなく終わりました。1989年(平成元年)に「ニセコいわない国際スキー場」と名称が変わりました。新たに現在唯一営業をしている、第一ペアリフトができました。

 翌1990年4人乗りフード付きの高速クワッドリフトが新設されました。このクワッドリフトの登場は、寒さと戦いながら長いリフトに乗っていた苦痛から解放され、利用者は喜びました。

 1991年には、アルペンスキーの王者ステンマルクが来町し、スキー場と5年間の専属契約を結んだそうです。どれくらいかかったのでしょうね?また、1992年FIS公認コースになり、公式大会が行われるなどの盛り上がりもありました。

 しかし、1990年の利用客12万5千人をピークに、スキー場の利用者は減少が続きました。理由はバブルの崩壊、子供の減少、スキー離れなど他のスキー場が衰退していく理由と同じことがあげられると思います。

 そして、2001年に民間資本が撤退し、クワッドリフト及び第4・5・6リフトの営業が中止し、第一ペアリフト1本だけの営業となりました。

 はい、今週もここまでです。スキーをする人間として、本当はいろいろとコメントしたいことがあるのですが、おいおいと。

平成23年岩内町の10大ニュース

 12月16日の北海道新聞後志版に、岩内町の今年の10大ニュースが出ていました。一般公募の集められた31通から、町長や商工会議所会頭などの審査員が決めたと書かれてあります。それによると、

①震災で通行止め・支援の輪広がる
②上岡町長3選
③日本アスパラガスが道省エネ大賞
④19年ぶり新造船3隻
⑤岩城前町長が逝去
⑥町人口1万5千人割る
⑦厚生園建替え着工
⑧岩高祭で25年ぶり山車パレード
⑨竹久夢二の美人画発見
⑩銀座通り親交会が道の「行ってみたい商店街」準大賞

 となっています。このブログでも、取り上げた話題が載っていますね。個人的には、第一中学校野球部が全国大会に行った事、弊社の「にしんのおかげ」が、北海道加工食品フェアで優秀賞をとった事。全国調味料選手権で、入賞した事を入れたいと思います。

 水産関係の話題が、新造船のお話だけでしたね。浜で大漁だったとか、話題をさそうニュースがなかったのは、残念です。

 それにしても、一般公募をして、31通しか応募がなかったというのは、残念ですね。公募という以上、それなりの広報活動をするか、公募ではなく、各種団体から提出していただく等のほうがいいと思いますが、いかがでしょう。

 私からの提言です。お役人さんたちは、過去にやっているから、今年も同じようにするという考え方を変えましょう。数年やって、効果がなければ、続けるほうがいいのか、やめるか、変えるかを考えてほしいです。前任者が・・・・なんていい訳しないでね。

にしんの親子飯

 北海道水産物加工協同組合連合会(通称:加工連)が昨年平成22年12月に数の子のレシピを載せたチラシを作成しました。QuiCooking(クイッキング)という、大手スーパーなどで無料で配られるものです。

 7つほど、数の子料理を紹介していますが、どれも美味しそうなので、今日はその中の一つをご紹介いたします。「やわらか身欠と数の子の親子飯」です。みなさんは、もちろん、ニシンと数の子は親子である事をご存知ですよね。

 親も子もEPAとDHAが豊富に含まれていますので、血液さらさら、脳が活性化する食べ物ですよ。お試しください。数の子と身欠にしんの購入は?・・・もちろん一八からですよね。

【作り方】

  1. 浅めの鍋またはフライパンに水(分量外)とにしんを入れてゆでこぼし、水200mlを加えて再び沸かし、Aを加えてゆっくりと煮詰め、しょうゆをまわし入れて煮付ける。
  2. 1が冷めたら半分に切る。
  3. どんぶりに暖かいご飯を盛り、のりを散らして2と数の子をのせ、その上に青じそをたっぷりとのせ、Bを添える。

【材料2人前】

  • 塩抜き数の子(半分に切る)・・・・4本(100g)
  • ソフト身欠にしん・・・・・・・・・・・大2本(150g)
  • 水・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 200ml
  • A 酒、みりん・・大2 砂糖・・小1
  • しょうゆ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大2
  • ご飯 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・大2膳(400g)
  • 焼きのり(手でちぎる) ・・・・・・・・・・・・1枚
  • 青じそ (千切り) ・・・・・・・・・・・・・・・10枚
  • B 練りわさび 小1  しょうゆ 大2       ◇監修/小笠原登志子先生

岩内地方文化センターの中にフェリーの模型

 国鉄岩内駅跡地の利用で、岩内地方文化センターという立派な建物があります。箱モノ行政の象徴です。ただ、もう出来てしまったものですし、私もたまに利用させてもらっているので、これ以上どうこう言う立場にはありません。

 さて、その文化センターの中にフェリーの模型があります。平成2年から上越市と岩内を結ぶフェリーが就航していました。平成11年に残念ながら休止となりました。フェリー会社の名は「東日本フェリー」で、現在はその会社はありません。

 平成2年の就航時に、この模型が作られてそのまま展示されています。平成4年に「はあきゅり」という船に変わりました。カントリーサインも今はたら丸ですが、昔はこのフェリーがデザインされていたのです。

 9年間のフェリー就航のために、大浜海水浴場をつぶして大きなフェリー埠頭と工業団地ができました。この模型を見るといつも、時代に流されてしまった大切にすべきいろいろなものを感じさせられます。

昔は黄色いダイヤと呼ばれましたが、今は違います

 昭和40年代から50年代にかけて、塩数の子は「黄色いダイヤ」と呼ばれた時がありました。お正月のおせちにはなくてはならない物として、もてはやされました。お正月だけの商材ゆえ、投機的に在庫を抱える人も出たのです。

 昭和55年、北商という会社が数の子の在庫を抱え過ぎて、倒産したという話は、業界の中ではあまりに有名です。その時代では、12月の半ばを過ぎて、品薄感が出ると数の子相場が値上がりする事がありました。それを見込んだのですが、度が過ぎたのです。

 食べ物を投機の対象とするのは、私にはその感覚がわかりません。多くの水産加工業者は、一生懸命に汗して作った数の子だったはずです。

 法人ギフトの目玉とされていた数の子も、今ではすっかり一般家庭で購入できる金額まで値下がりしています。そして、今年はさらにいくら、たらこ等の他の魚卵が値上がり傾向にあるので、数の子はとてもお安く、お求めやすくなっています。

 塩抜きしたことがない人もたくさんいらっしゃるでしょうが、ぜひお安くなった塩数の子を使って、手づくりのお節料理にトライしてみてはいかがでしょう?もちろん、塩数の子の購入は、高品質でお得な一八からですよ。

 

除雪車始動

 11日の日曜日に降雪があり、道路も10cmほどの雪が積もりました。とはいえ、岩内町の中でも、降雪量の違いはありますし、風が強いところでは、降り積もった雪が風で飛んで行ってしまいます。

 深夜から早朝にかけて除雪車が忙しく動き回ります。一般の人たちが動き出す前に除雪をするためです。その通った後は、置きみやげと称する雪山が会社や自宅の前に残り、それらの雪を各家庭や各自が排雪するという構図になっています。

 写真は、6時過ぎに通った除雪車です。ピントが合わず、申し訳ありません。降雪量が多い時には、フル回転で動き回ります。寝ていると、その大きなエンジン音で降雪量が多いか少ないかがわかります。

 仕事をする前に、この除雪作業をしなければ、仕事のスタートになりません。やっぱりいやだなと思うのですが、この寒さが来なければ、本来来るはずの魚もやって来ないのです。冬はやっぱり冬の状態でなくては、美味しいものもできません。そう考えれば、「しかたない」という言葉が自然に出てしまうのです。

塩数の子のご注文は、ご確認ください

 弊社ホームページでは、地方発送の商品を取りそろえておりますが、「塩数の子」のご注文に当たっては、毎年10日前後で予約の受付を終了させていただいております。

 種類によっては、その後であっても在庫があれば、もちろん受付させていただきますので、お電話、メール、FAXでお問い合わせください。

 塩数の子は、以前もお話したように、産地別大きさ別個質別、そして、パッケージの量目別とさまざまな種類があります。高品質の塩数の子を、お手頃価格でお客様にお届けするために、ホームページでの掲載に当たっては、2種類とさせていただきました。

 10日を過ぎて、「しまった!」と思われたお客様、ご安心ください。とりあえず、弊社までご確認を。