昭和38年に私費で建設された八興会館。運営も町に頼らず、私費で行った全国でも類を見ない道場。一般的に考えるのは、余裕のある資金を使って建設したと受け取られがちですが、それはまったく違います。
昭和29年の大火後、会社の経営も厳しい状態になっていました。個人的な蓄財などあるわけがなく、それなのにどこから当時の450万というお金を工面できたのでしょう?
建設当時、息子である紀八郎氏(現社長)は一八で専務として働いておりました。まともに考えれば、建設を賛成する身内などいるはずがありません。身内を説得するなどという方法を取らず、半ば強引に当時の専務を内地(本州)に出張に出させ、出張先へ次から次へと次の訪問先を指示し、1カ月近く帰って来させなかったとのこと。
専務が帰ってくると、八興会館はほぼ出来上がっていたというのです。会社には田村さんという金庫番がいて、紀伊右エ門の強引な手法を裏で支えておりました。当時の金銭感覚では、借金を含めて個人資産も会社の資産も同じようなもの。あくまでも私の推論ですが、社長への貸付という形で、会社が建設資金を立替え、返済は社長の給与をそのまま当てたのではと思います。
それゆえ、質素な生活でしたし、私たち孫は世間に当たり前のようにある祖父から孫へ何かを買ってもらったり、お年玉をもらうなど一切ありませんでした。私が祖父からもらったものは、唯一小学生のときに九州の出張先から送られてきた絵葉書1枚だけでした。
「志を先に持って突き進め、金は後からついてくる」と私には見えます。高度経済成長という時代背景が後押ししてくれたのでしょうが、「志」が輝いていたからこそ、それに共感する多くの人たちによって支えられた八興会館でもありました。