『八興会館』 その2

 私の祖父である紀伊右エ門は15歳の時に、新潟の佐渡から北海道に渡ってきました。幼い時に両親と死別。祖父母に育てられたと聞きます。
 
 祖父母には、「これからは満州か北海道の時代だ。どちらかを自分で選んで行きなさい」と言われたそうです。それで北海道に渡ってきてくれたのですから、今の私がいるのもその時の紀伊右エ門の選択に感謝しなくてはなりません。

 紀伊右エ門は、祖父母に「将来は人のためになる事をしなさい」とも教育されてきたらしいです。その人のためということが、八興会館建設によって、青少年の健全育成へとつながったのではないかと私は推測します。

 紀伊右エ門自身は剣道、柔道とはまったく無縁でした。建設した後の運営を町に一任するほうがよいと回りから勧められたのを振り切り、自ら館長に就任し、その維持運営も私費にて行ってきました。

 それほどまでの熱意とはどんなものであったのか、孫である私にも理解ができません。金銭的な余裕などまったくないのに、誰も真似のできないことを実行した、とんでもない人物であった事は確かです。

 

『八興会館』 その2」への2件のフィードバック

  1. もとiwanaibito

    小学校5年生の頃だったと思いますが朝礼で校長先生が八興会館の出来た
    訳、お祖父さんの思いを話して下さったことを記憶してます。
    当時、会館のすぐそばには大火後、仮設的に建てられた町営住宅が多数
    あり多くの子供(団塊の世代)が会館に通うようになりました。
    夏休み海水浴に友達を誘っても会館で練習があるからと断られることも
    度々あり八興会館に友達を取られたような・・・・・

    会館の玄関を入ったらすぐに剣道場 奥の方が柔道場、警察官の方々も
    練習に来ており時々剣道着のまま柔道の指導をしていたのが思いだされ
    ます。

    後に岩高の剣道部も合宿していました。

    大浜地区で育った団塊の世代には大きな影響をもたらした会館であった
    ことは間違いありません。

    返信
    1. 北のお魚大使

      もとiwanaibitoさん、八興会館の思い出、ありがとうございます。
      おいおいと書かせていただきますが、岩内の剣道、柔道が強かった時代背景に、この八興会館の存在があったと。
      玄関側に剣道、奥が柔道。レイアウトまで覚えていただいて、ありがとうございます。

      返信

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