昭和29年、9月26日夕刻に台風15号により、岩内町は町の3分の2を焼失するという大火があったことは、岩内に関係する人ならば、知っていることでしょう。
私はもちろん生まれてはいない時の話ですが、死者36名、17,223人の被災者を出し、財産が一夜に消えた痛ましい災害です。郷土館に行くと、その資料は残っていますが、想像を絶する火の広がり方だったようです。
弊社の社長に、この大火の話をさせると、たぶん翌日まで話すほどの記憶に残る状態だったようです。特に岩内は港にたくさんの船が係留されていました。台風を避けるために港に入っていたと思われます。その船の係留ロープが火で焼け、船が燃えたまま大浜地区に流され、燃料のドラム缶が風でゴロンゴロンと熱で丸くなった状態で飛んでくる中を必死に逃げたということです。そのドラム缶が爆発すると、周囲に火が瞬く間に広がることも災害を大きくした原因だと。
いろんな要因が重なって大災害となった岩内の大火。しかし、当時の新聞は、同日、同台風によって起きた洞爺丸転覆の大惨事の記事がトップを占め、岩内大火の記事はほんの数行だったため、記憶にない人が多いとのこと。
災害は忘れた頃にやってくる。ちょっと日はずれましたが、二度とその災害が起こさないため、日ごろからの注意はしましょうね。会社の書類を整理していた時に見つけた、昭和39年の町の広報です。
丁度、1年前のブログになりますか。
本日、たまたまこのブログを見ました(2011/9/18)。
岩内の大火時、小生は小学5年で、御崎に住んでいました。
台風15号の影響で、フェーン現象が発生し、乾燥した空気でアッという間に火は燃え広がり(風速約40m)、PM8時頃、家族と共に高台に避難しました。
ブログにあるように、夜半、高台から港の方を見ると、ドラム缶がドーンと空中に舞い上がり、花火のように爆発していたのを覚えています。
これにより、運命が大きく変わった人も多くいたと思います。
もう56年前の出来事ですね!
その後、岩内も区画整理されて、綺麗な町になりましたね。
懐かしく思い、一言コメントしました。”めんこちゃん”の大フアンです!
コメント、ありがとうございます。たまたまでも、このブログを見つけていただきまして、とてもうれしいです。
岩内の大火の惨事は、やはり語り継がねばならないと思っています。私の父の兄妹も大変な思いをして、逃げたと語っています。
後世に二度と起こさないためにも、どんなことでも教えていただければ、と思います。
めんこちゃんをいつもお買い上げいただいているのでしょうか?いつも、ありがとうございます。これからもよろしくお願いいたします。
大火の話からは一寸それますが、一八さんとのエピソードを。
岩内での電話普及当初のことです。
小生の家の電話番号が18番だったそうです。一八さんの屋号と同じなので、多分、先代様からの依頼で、番号をお譲りしたと母から聞いています。
但し、これは記録検証しておりませんので、あくまでも伝聞です。
私の記憶では、小町庵と言う蕎麦屋を開いていた頃の番傘があり、それに小町庵の屋号と電話18番が書かれていたように思います。
今の電話番号体系とは異なるので、昔の話です。
補足情報。
アーカイブ2011年1月号を見ましたら、昔の貴社チラシの電話番号に”0018”がありますね!
なお、小町庵の番傘は大火で焼失しましたので検証はできません。
弊社社長に確認をしたところ、小町庵さんから0018番を譲っていただいた事は確かなお話とのことです。その時は、お互いのご先祖でのお話ということになるのでしょうが、お世話になりました。
ただ、譲っていただいたと言いましても、ちゃんと報酬はお支払いしたようで、当時の番号の売買では最高値だったと。先代がそれほど18番にこだわっていたからでしょう。
このようなお話を聞かせていただき、本当にありがたく思います。
岩内にこられましたら、ぜひお立ち寄りください。
お忙しい身でわざわざ御確認戴き、ありがとうございます。
私も電話の報酬の話は聞いていませんでした。
ところで、別の場の方がいいのでしょうが、行き掛り上、この場で述べさせて戴きます。”めんこちゃん”に関してです。
辛子明太子の応用製品として大人の口には全く問題ないのですが、子供の口には合いません(辛い)。
そこで提案なのですが、子供にも合う”めんこちゃん”バージョンを開発しては如何でしょうか!
たらこ・いくら好きな子供は沢山いると思います。 現に、私の孫達も大好きです!
是非、研究してみて下さい。販路拡大に繋がると思います!
貴重なご意見、ありがとうございます。
子供にも合うめんこちゃんバージョンですね。実は過去何度か研究をして、何度も挫折した経緯があります。でも、そんな声があるのなら、がんばって挑戦しなくてはならないですね。
ありがとうございました。
一八さんの新しい製品開発に大いに期待しています。
私もNTT系列で100億円以上の売上につながる製品開発の経験があります。
食品に関しては全くの素人の直観ですが、蜂蜜にヒントがありそうです!?
開発成功の折は、是非、第一番に試食させて下さい。
勿論、有料で結構です。
本話題、企業ノウハウに絡んできそうなので、これで打ち切りと致します。
岩内大火記念日に想う
大火から又1年の歳月を重ねましたね。私の2・3の印象的雑感を述べます。
金庫:自宅が某銀行の出張所だったため、1.5m高の大型金庫がありました。
大火の高熱で、真鍮製ダイヤル部が溶けて変形し、鍵が開きません。
私は、鉄のバリ棒を使い、約1週間掛りで扉を壊して、開扉しました。
→ 今の耐火金庫技術(超合金)なら、これは無いでしょう!
これで金庫の構造に相当詳しくなりました(笑)。
蔵 :岩内には蔵が沢山ありましたが、土蔵は殆ど大火で焼失し、残ったのは
石蔵です。幸い、私の家の石蔵は焼け残りました(現中谷金物店倉庫)。
焼け残っても十分冷却してから扉を開けないと、開けた途端、空気の流
入と共に爆発的に発火し、焼け落ちてしまう蔵を幾つか見ました。
→ 今なら、当然、鉄筋コンクリート建てですね!
石炭:当時は、石炭ストーブ用の石炭を秋口に購入、備蓄するのが常でした。
私の家でも、2トン程の備蓄があり、大火で火が付き、消防車のポンプ
で何回か散水してもらいましたが、消火に1週間は掛かりました。
→ 石炭は遠い昔の話になりましたね! 煙突掃除が大変でした。
合併:当時、岩内の人口は3万人弱で、近隣の村と合併し、市になる話が煮詰ま
っていましたが、大火で御破算になり、岩内のその後の方向に大きな影響
を与えました。
→ 結局、共和村の誕生となり、市への夢は破れました!
一八の現社長さんも私よりもっと色々な思い出があることと思います。
最後に、当時、不幸にも大火で亡くなられた方々の冥福を心より祈り、合掌!
貴重なお話をありがとうございます。
石蔵に逃げた人のお話は何度か聞いたことがあります。
石蔵は確かに火から逃れることができましたが、その中に逃げた人は、蔵の中にためてあった水瓶に何度も頭を突っ込んで、暑さに耐えたとのことです。
ちょっと想像つかないおそろしさですね。
また思い出したことがありましたら、教えてください。
通常、蔵は家財等の物品を火災・盗難から守るためのもので、人が火災から逃れるために入るのは、周りが火の海で、そこしか避難場所が無いような緊急時に限られます。場合によっては、酸欠で死ぬ危険性もあります。この例では、入っていた方々は大変な思いでいたと思います(水が生死を分けた)。
火災の際、蔵の本扉を閉めた後、隙間を「生みそ」で封印し、熱風の流入を防ぎます。我が家の蔵も「生みそ」で封印しました。
今でも、大火の後の焼け焦げた煙の臭いが脳に強く焼きついています。 テレビで神戸大震災・東日本大震災等の火災画面を見るだけで、その臭いを思い出します。また、近所の畑で焚火をしていると、その時も思い出します。
大火から50年以上になりますが、一生その記憶が消えることは無いでしょう。
小町谷さんの大火のお話を読んでいると、大火を知らない私には想像もつかない状態だったと感じます。
生みそで隙間を封印したという話は、何度か聞いたことがありました。
でも、中に入っていた人たちの精神状態は、どんなだったのでしょう?
先日は”めんこちゃん”の購入の機会に、初めて専務さんにお会いできました。
感激です!
岩内に行ったので、郷土館を訪れました。
岩内の大火は災難でしたが、約3年で見事に復興できたのは、都市計画法に基づく調査・研究が地道になされており、これを基盤に復興事業が実施されたためであることが分かりました。恐らく、このような準備がなかったら、昔のままの復旧に終わっていたのでしょう! まさに、災い転じて福となす、でした。
私も初めてこのことを知りました。
また、小町谷家のルーツ探索をしていましたが、郷土館のパンフレットなどから祖父(源吉)が長野県駒ケ根市(旧:上穂村)出身で、岩内の昔の一流料亭”金精楼”(後の島野屋)の支配人をしていたことが確かめられました。
今回の訪問で色々勉強になりました。
小町谷さん、こちらこそ来社、お買い上げいただきまして、ありがとうございます。
このブログを通じてお客様と接する事が出来て、何よりの幸せです。
岩内を離れても、いろいろと興味をもって調べる姿勢は見習わねばなりません。
駒ヶ根市には、今年の春に出張で長野県に行った時、宿泊しました。
長野県でも一八の身欠にしんを食べてもらっています。
これからも、いろいろと岩内の埋もれた歴史を紐解いて、教えてださい。
ありがとうございました。