昭和44年の出火

 昭和44年今から42年前の11月1日、事務所から道路一本を挟んで建っていた工場が焼失してしまいました。私が小学校2年生のときだったと思います。

 工場の乾燥機は今のような電気ではなく、重油を使っており、その着火の不具合から出火をしてしまったとのことです。ずいぶん前の事ではありますが、ご近所のみなさんやさまざまな方にご迷惑をおかけしました事、お詫び申し上げます。その時、子供だった私の記憶を綴ります。

 寝ていた私たち子供は、母の「火事だー!おきなさーい!」という悲鳴にも似た声で飛び起きました。出火した工場と、私たち家族が住んでいた家はすぐ隣にあります。その時点ではまだ火は工場内だけだったものの、時間とともにどんどん火は大きくなり、屋根の高さを超えてしまいました。

 今の事務所に避難して、消防の消火活動を見守るだけなのですが、窓から見える大きな炎を見て、不安な気持ちが駆け巡りました。事務所の時計は夜の11時を回っていました。

 うっすらと雪が降っていました。道路は雪がありましたが、日が登れば消えてしまうくらいでしょう。そんな中、野次馬がたくさん集まってだれかが「さみーけど火であったけえな」(寒いが炎で暖かいな)と言った事が子供心にも悔しくてなりませんでした。

 その夜は親戚の家に泊めてもらいました。翌日、なんとか燃え移らずに済んだ我が家に戻りましたが、白衣を着た人たちが我が家に入り、いろんな調査をしています。焼け跡は焦げ臭さでいっぱい。窓のガラスは融け落ちて団子状態に。

 週明けの学校に行くと、口の悪い友人が、「俺んちまで火の粉が飛んで来たぜ」と私に言います。何も言えずに下を向いていました。

 ちょっとブルーな内容になってしまいましたね。ごめんなさい。私にとって11月1日は、この火事の日を思い出さずにいられません。工場の屋根裏に書き初めを発見しました。今は亡くなった前工場長が書いたものです。先代から火の扱いには注意しろと口酸っぱく言われていたからだと思います。

 災害は忘れた頃にやってくる。備えあれば憂いなし。口だけでなく、実行しなくっちゃ。

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