駅前十字街の12月の風景

 いつ頃からでしょう、駅前十字街から協会病院に登る坂の手前に、お正月用のしめ縄等を販売する露店がでなくなったのは。

 12月も半ば頃になると、現在の小林書店やそのお向かいなどに、露店が数軒出ていました。その風景を見ると、ああ、師走だなぁと感じたものです。

 お店がなくなった理由は、ホーマック等の大型店で安く買えるからというのが、私が聞いた数人の分析です。そもそもしめ縄を飾るところがなくなってきましたよね。昔は乗用車のラジエターの部分にも、しめ縄を付けていた人がいました。

 写真は12月23日に撮ったものです。確かに出店はありません。それよりも、都会の皆さまはお気づきになりましたか?23日といえばクリスマス前です。この写真を見る限り、まったくそんな雰囲気もありませんでしょ。ここは岩内の中心地なのにです。

駅前十字街の12月の風景」への10件のフィードバック

  1. 渡部 訓孝

    昨日は私のコメントにすぐつぶやいて頂きありがとう。この肉屋さんは、杉原さんですね、あと矢田の豆腐やだとか、もちろん変電所横の内田商店のものを食べて私は育った。この坂を登って高台小へ通った。失礼ながら専務さんは一八さんの三代目なんだね。素晴らしいブログですね、拝見するに、岩内に対する愛情、郷土愛には感心いたします。一に木田金次郎、二に専務さんというところですね。いや冗談抜きで。

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  2. 北のお魚大使

    ありがとうございます。ちょっと褒めすぎのお言葉で、恐縮です。

    杉原さんにお気づきになりましたね。よく覚えていらっしゃいます。
    昔は呉服店がたくさんありました。
    今ある北大学力増進会も呉服店、杉原さんの隣はイチヤママタ呉服店でした。今は、北海信金の東支店になっています。
    内田商店は今もありますよ。そのうち、このブログで載せますね。

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  3. 渡部 訓孝

    駅前十字街とガベ坂十字街までは、300メーター位なのかなあ?昭和32~3年頃だと思うんだけど、この間が岩内初の舗装道路となったんだよ。それまで、父さんが畑で穴掘るところしか見たことがなかった、小学生にとっては驚愕の大事件だったなあ。今でいうショベルカーみたいのがきて、それこそ当時そろばんを習っていた江川さんの前の道路を掘り下げ、大量の土砂を運んで行ったよ、学校帰りに何時間も見てたなあ、でも俺だけじゃなかったよ、すごい人だかりで、なんか岩内の町中の人が集まって来てたような気がするなあ。想えばあれが、列島改造の始まりだったんだね。

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    1. 北のお魚大使

      貴重な体験談をありがとうございます。岩内初の舗装道路が、壁坂十字街と駅前十字街の間だったのですか。それは、驚きますね。じっと見ている風景もなんとなく想像がつきます。工事関係者も得意気だったのでは?
      江川さんの2階のそろばん塾に通っていた友人は結構いましたね。
      銀座通り商店街と名がついた理由は、やっばりにぎわった場所だったからなのですね。

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  4. 渡部 訓孝

    そっかー ガベ坂は壁坂と書くんだったね。あの頃 壁坂の手前と壁坂の向こうで、世界が変わるような気がしたなあ。手前は、田舎だけど超えると、街という感じだったなあ。親も街へ行くという言い方をしていたけど、壁坂の向こうへ行くという意味だったよ、駅前通りの向こうは、さらに賑やかで、大浜に住む小学生は憧れたなあ。その右側の通り今でいう飲食街だけど、なんとなく小学生にもまた別世界があるというのはわかったよ。変電所で行事があると、父さんはその別世界へ行ってたような気がするなあ。なんか母さんも心配してたよ。

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    1. 北のお魚大使

      最後の飲食街の事ですが、おもない公園付近から、うきよ公園にかけての、いわゆる「浮世通り」ですが、ここには数百の飲食店が夜をにぎわせていました。その数は、小樽の花園通りの飲食店の数をも上回っていました。
      残念ながら、この不況下では、お店を畳む人が後を絶ちません。
      でも、まだまだ頑張っているお店もありますので、岩内にこられましたら、どこかに入って昔話に花を咲かせてください。

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  5. 渡部 訓孝

    えー うそでしょう? 飲み屋が数百件もあったて? だって余市の有楽街だってピーク時で60件と聞いたことがあるよ。余市と比べるのがおかしいのかなあ?でもこの話を聞いて思い出したことがあるよ。母さんは高台小のPTAの副会長だったんだけど、いつかPTAの講演に時の警察署長が来たらしいんだ。署長曰く 岩内はやくざの数が、三番目だと。一位札幌 二位旭川 三位岩内だったらしい。当時は俺も専務さんに負けないくらい岩内愛が強かったから、やくざの何たるかも良く分からなかったけどなんとなく嬉しかった様な気がしたなあ。母さんはこうも言ったよ それだけ街が栄えているということだよ。しみったれた街にはやくざも来ないからね と。昔の親は凄かったねえ、今のお母さん達には絶対に思いもつかない発想だね。

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    1. 北のお魚大使

      実際に数えたことはありませんが、余市の数とはまったく比べ物になりませんでした。数百という表現がオーバーかもしれませんが、100軒は間違いなく超えていました。
      渡部さん、面白いお話をありがとうございます。
      確かに岩内のおっかさんらしい、肝のすわった発言ですね。

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  6. 渡部 訓孝

    最近は年のせいか、昨日のことも忘れるのにあの頃のことは覚えているなあ。当時岩内に四軒あった映画館の名前今でもすらすら言えるよ。それこそ、壁坂十字街を右に曲がると、東栄劇場 駅前十字街を超えると右にすぐ、万生館 その先に遊楽館 そして街外れの左側に双葉座 だったと思うなあ。もし間違ってたらどなたかご訂正を・・・ 東栄劇場は裕次郎が、活躍してたなあ喧嘩がめっちゃ強くて、ビールなんかラッパ飲みしてたよ。日活系だね。万生館は時代劇で片岡千恵蔵と大友竜太郎?が、活躍してたなあ。松竹系だね。遊楽館は青春路線で 桑野みゆきだとか山本豊三なんてのも活躍してたなあ。姉ちゃんは遊楽館に行きたがってたなあ。東宝系だね。双葉座は洋画だったよ。この頃正方形だったスクリーンが横長のシネマスコープとなり カラーも出てきたよ。カラーのことを総天然色なんて言ってたなあ。 
     ああ、古き良き時代の岩内よ・・・

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    1. 北のお魚大使

      ここまでしっかり覚えていらっしゃるとは、すごいですね。
      年配の方にとっては、その当時、娯楽と言えば映画だったのですよね。
      とはいえ、この岩内に大きな映画館が4つもあったとは、さすが岩内といったところでしょう。
      総天然色ですか・・・知りませんでした。
      貴重な昔話(失礼)をありがとうございました。

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