岩内の円山スキー場でのスキー授業

 先月から毎週日曜日は岩内のスキーの話題を特集しています。今日は当時の学校のスキー授業についてです。

 1970年代、私が中学高校時代、3学期の体育にはスキー授業がありました。体が小さく、他のスポーツでは、常に皆の足を引っ張っていた私です。友達はそんな私にスキーだけは一目を置いてくれました。

 第一中学校でのスキー授業は、校舎の裏側の20mほどの斜面を使うのが数回。その後一週間の体育の授業を一日にまとめ、午前中1時間か2時間授業をしてから、バスで円山に行き、スキー授業をするというもの。高校時代も同じでしたが、3年生の3学期は受験があるので、スキー授業はなしでした。

 スキーができる子にとっては、ワクワクする日です。授業が終わると、その場で解散ですが、残りたければ残ってもOKです。当然日が暮れるまで私は滑っていました。 

 レベルに合わせて4つのグループに分けられます。普段滑る子はいいのですが、滑らない子にとっては、とてもイヤだったと思います。でも、上手ではなくても、それなりに滑る事が出来るのが、当時の「北海道の子ならでは」でした。

 今はスポーツの多様化で、冬もいろいろなスポーツをやるために、あまりスキーには行かないようです。私が中学生の頃は、夏の間バレーボールやバスケットをしていても、冬にはスキー部にかけ持ちで入るといった友人もいました。

 学校の先生も、スキーの得意な人、そうでない人がいました。もちろん、体育の先生より上手に滑る生徒もたくさんいました。今は、本州出身の先生も多いようで、靴を履くことから教えなくてはならない子もたくさんいて、スキー授業が成り立たないらしいです。

 そんな話を聞くと、時代の変化を感じます。昔の方が良かったと言うのは、滑ることが好きだった側の言い分です。年に一度や二度のために、スキー道具一式を買うのはもったいないと言われる事ももっともです。

 でも、こんな素晴らしいスキーのできる環境が目の前にあるのに、スキーをしないことの方が、私は「もったいない」と思います。写真は円山(観音山)を真横から見たものです。建物は荒井記念美術館で、私たちが円山で滑っていた当時は、この建物はもちろんのこと、道路すらありませんでした。

岩内の円山スキー場でのスキー授業」への2件のフィードバック

  1. 高倉 県

    昔のスキー授業のお話 懐かしく読ませていただきました。
    私の一番の思い出は、学校から円山に向かって、汗をかき、冬道を歩いて上ったこと。
    自分のスキーが無く、学校のスキーを借りたことが、頭に浮かびます。
    クラス45人 物が不足し、裕福や豊かさとは無縁の時代でしたが、たくさんの友達、仲間と過ごした 心が暖かい「良き時代」でした。

    今日の道新、「にしんのおかげ」高評価
    すばらしいニュースです。
    岩内のすばらしい財産を、町民みんなで大事にしたいものです。
    製造元の一八さんと、生みの親の紀専務、発信者の長谷川記者に感謝です。
    先人が築き、今に至っている岩内の財産「地の利」を、町民みんなの「人の和」で、どんどん、全国に発信したいものです。

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    1. 北のお魚大使

       なつかしいと感じていただけると、書いた私としては何よりです。高倉県さんは、円山までスキーをかついで行った時代なのですね。円山についても、当然自身の足で上に登り、そこから滑ったのですよね。そんな疲れる思いをしてもスキーは楽しかったですね。今は、「かったるい」のひとことで終わりです。

       道新後志版の記事、ありがとうございます。派手なパフォーマンスはできないですが、こつこつやっていると、拾ってくれる人もいるものですね。今日は会う人ごとに「新聞にでっかく出てたね」と言われています。言われるだけでなく、結果として出てほしいといつも思っているのですが・・

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