また凄い写真が出てきました。推定昭和15年~25年のものと思われます。一八興業水産株式会社の前身、一八紀伊商店時代です。
二つに並んでいる工場には、右側から読んで、「協力一致」「生産増強」と書かれてあります。従業員はたくさんいますね。写真には写っていないけれど、もっと従業員がいたそうです。それも18歳などの若い子が多かったとのこと。今とは雲泥の差です。
この頃は、軍需工場だったらしいです。と言っても、武器を作るのではなく、政府からの指令による、とろろ昆布製造とのこと。看板には、「横須賀、呉東商店指定工場」と書かれてあります。
写真で気になったのですが、屋根の上の丸いものは煙突かな?と現社長に聞くと、水がめで、火事になったらこの水を使って消火するためのものらしいです。今でいうスプリンクラーなのですね。
社長の記憶では、この写真を撮った時代の後、二つの工場をつなげるように大きな屋根が付けられたそうです。今の建物でいえば3階建てのような大きさになったのですね。ですから、遠くから見ると、この工場はひときは目立った大きさだったと。
昭和29年の大火によってこの建物は全焼。手前は鉄道の線路です。その場所から推測すると、大火後に道路拡幅のために、協力一致と書かれた工場の半分くらいの土地は、没収されたようです。
大火によって全部焼けてしまったのに、なぜこの写真が出てきたのでしょう?焼けなかったところに住んでいた人が、この写真は一八が持っているべきだと先代に渡してくれたようですが、確証はありません。
郷土館もびっくりの写真。写っている方のほとんどは亡くなっていると思います。もしも、これは私だと記憶にある方がいらしたら、ご一報ください。
すごい写真ですね さすが私の年代では解りません。
ただ踏切があるので今の事務所の裏側から撮ったものと想像できます。
この踏切には想い出が・・・・私の家から海水浴場へ行くには
一八さんの事務所前を曲がり みりん干しをローラーに掛けてる
工場を見ながら踏切を渡り海の方へ・・いい匂いがしてましたよ
3年ぐらい前までは、ここを車で通る時一時停止をしてました。(笑)
先日 渡部さんのコメントに茅沼鉄道の話がありましたが一八さんの
裏手に乗降ホームがあり、木造の客車一両がついて博物館に有るような
機関車でした。 今のトマリン館の所までロープウエーのような箱で
石炭が運ばれそこから鉄道で岩内駅へ運ばれていたものと思います。
いつだったか、機関車が脱線横転する事故がありしばらく見ていた
ことがありました。 乗降ホームの処で
3月23日小学校の仲間7人で食事「岩内町の風景」をプリントアウト
皆で懐かしい・・・盛上がりました。 ありがとうございます。
これからも宜しくお願いします。
もとiwanaibitoさん、ありがとうございます。
おっしゃる通り、踏切側から今の工場の裏手側を撮ったものです。
私の子供のころは、みりん干しをローラーがけする仕事が、年間を通して行われていました。
その工場は、ローラ場と呼んでいました。大きな換気扇が回っていたので、焼きあげたいいにおいがしてましたね。
線路がなくなった当時は、結構一時停止する車が多かった記憶があります。
工場の裏手に乗降ホームがあったのですか?それは初耳です。
私のブログの話題が、みなさんの食事会でのお話のネタになったのですか。それはとても光栄です。
そう言っていただけると、まだ続けて書く意欲がわいてきます。
ありがとうございました。
東京で小さな会社を経営しているものですが、この写真の掲載に感動しました。 というのも、写真の中に移っている「横須賀呉東商店指定工場」の、横須賀呉東商店は私の祖父が経営していた商社です。 今では祖父も祖母も他界し、呉東商店自体は存在しませんが、その名前を偶然御社のブログで発見したので、とても驚きました。
森川様、コメントいただきましてありがとうございます。
まさにネット社会の凄さを実感しますね。
こんな片田舎の一枚の写真が、歴史を紐解いたといったところでしょうか。
森川様と弊社の先代がどのように結びついたかはわかりませんが、
これもひとつのご縁だと思います。
これから仕事が始まりますので、就業時間を過ぎたころに、圧縮していない写真をメールで送らせていただきます。