岩内町に海水浴場があったのを知っている人は、若い方ではないでしょう。場所は今の工業団地。夏場の1か月程度、泳ぐことができました。冷たい物を売る店もありましたし、着替えをするところもありました。水しか出ませんが、シャワーもありました。ジリジリとした暑い日に、学校から帰ってきてすぐに海水パンツを履いて、自転車で海水浴場に行って遊んだ記憶は、とても楽しいものでした。
一八の先代、紀伊右衛門はその海水浴場に人の流れをつくるためか、写真のような看板を海水浴場の近くに立てました。この看板は、一八の倉庫の隅にあったものです。看板は他に3つもあります。どのような意図でこの看板を設置したのか、わかりません。
時代の流れとはいえ、フェリー埠頭と工業団地造成のために海水浴場は埋め立てられ、夏の景色が変わってしまいました。今砂浜はコンクリートで固められ、フェリー埠頭もフェリー会社の撤退により、何もない釣り場と化し、工業団地は売れずに残る空き地の方が多い状態。
誰もこんな状態を予想していなかったでしょう。ただひとつ言えるのは、自然に人工の手を入れてしまえば、もう元には戻らないということ。倉庫に入ってこの看板を見るたびに、海水浴場の歓声と今のむなしい状態が交錯します。
よく大浜で子供の頃ハマグリを取って遊んでました。
友達と 取った数を競ったものです。
この間40数年ぶりに大浜を見に行ったら・・・
・・・とても悲しかったです。
コメント、ありがとうございます。夏のあの海水浴場の風景、忘れられませんね。
田口さんはマハグリを取るのが上手だったのですね。私はへたくそでした。へたくそで、たった一個しかとれなくても、それを家で焼いてお醤油をかけて食べたときの美味しさと言ったら・・・
埋立地の話は書き始めると、止まらなくなりそうなので、やめておきます。
ブログ拝見しました。
私は90年代の初頭に共和町の親戚の家に行きました。
その時、岩内に行って、海岸を散歩した記憶があります。
9月のせいか泳いでいる人はいませんでしたが、フェリー乗り場ができるまでは泳げたと聞いて、この大浜海岸のことかと思いました。自然破壊に関するご意見、同感です。
バイクで来た人たちがキャンプをしていました。航空写真で見ると海岸が残っているように見えますが、ここはまだ泳げるのでしょうか。
であれば、子供たちと一緒に行ってみたいと思います。
よろしければ教えてください。
松浦様、コメントありがとうございます。
当時の海水浴場は、フェリー埠頭と工業団地造成により、なくなってしまいました。
防波堤を境にして、共和側にはまだ砂浜の海岸が残っていますが、残念ながらそこは遊泳禁止区域となっています。
キャンプをしている人もいるようですが、ゴミの問題、トイレの問題などもあり、そこではされないほうがいいかと思います。
もしも泳がれるなら、掘株の海岸(砂浜)か、盃の兜岩(岩浜)のほうになります。
キャンプでは、円山にオートキャンプ場もありますので、そちらのご検討もしてください。
私は大浜で18歳まで育ちました。このプログを読んでとても懐かしく思い出しました。海水浴場まで走れば10秒のところに住んでいて、一八の先代、紀伊右衛門さんは良く知ってます。18歳くらいの頃にフェリー工事が始まって海水浴場の風景が変わって行くのをぼんやりと覚えてます。フェリーが開通したので何度もクルマで帰省しましたが無くなってしまい残念です。小さい頃はハマグリは当たり前で、白灯台ではウニやアワビが普通に獲れてその場で食べていたのも懐かしい思い出です。岩内高校まで毎日通ったのも楽しい思い出です。まだ実家が有りますので法事に帰る事もありますが風景ががらりと変わってなにか寂しい感じなりますね。これも時代の流れです。大浜には、たしか昭和43年だったか、映画の撮影で吉永小百合さんが来た事もあるんですよ。私は凄く小さかったですが声を出してしまい怒られた記憶があります。あの頃と比べて人口は約1/3になりましたが発展していく事を願います。
どさんこさん、コメントありがとうございます。
今は本州にいるのですね。
岩内の昔の風景を懐かしんでくれて何よりです。
やはりみなさんにとって、生まれ育った場所というのは、特別な場所ですね。
吉永小百合さんが岩内に撮影に来たのは、私が中学生のころでした。
高台小学校でも撮影をしたはずですよ。