高台小学校閉校記念誌

 岩内町の小学校統合により、現在の中央小学校が来年3月に閉校し、東小学校と西小学校の2校となります。中央小学校の前身は高台小学校。私も高台小学校の卒業生です。

 弊社2階を整理していると、また懐かしいものが出てきました。高台小学校の閉校記念誌です。今の協会病院が建っている場所にありました。中庭が二つ存在する、変則的な建物でした。

 昭和26年から閉校の昭和52年まで。たった26年間だったのですね。私が記憶するあの校舎から想像するに、かなりの歴史を持った学校だと思っていたのですが、こうして記念誌を読んでみると、意外なことがわかります。

 弊社の先代紀伊右エ門、現社長の紀八郎も、この高台小学校でPTA会長に就任していた時もありました。そして、このブログでたまにコメントをいただく高山さんの文章も見つけました。高山さんの最後に書かれていた言葉を写させていただきます。

 「・・・・高台小学校はいつまでも僕たちの心の中に立っていて、これからの僕たちをささえてくれるだろう。」

高台小学校閉校記念誌」への24件のフィードバック

  1. まこと

    おはようございます 久々の投稿です
    自分も高台小学校卒業なのでなつかしい校舎見て書き込みました
    この記念誌ほしかったです もう手に入らないでしょうね・・・
    職員玄関のつたが思い出されます 中庭の入り口切り離しできるように
    なっていて 石炭入れてましたね
    中庭の遊具は自分が小学校に入学した時か二年生の時だったと思います

    返信
    1. 北のお魚大使

      まことさん、お久しぶりです。
      私もこんな記念誌があった事を今回初めて知りました。
      時間が経過すればするほど、懐かしく思い出されるのでしょうね。
      玄関のつたは、最後の数年間は取り除かれ、壁面がペンキが塗られましたね。
      中庭の作りは、とても面白いものでした。
      みなさん、その記憶がやはり残っていますね。

      返信
  2. まーちゃん

    こんにちは。初めまして。
    ある人から専務さんのブログについて聞き、ちょっと覗いてみたら すっかり引き込まれ、最初から順に読んできました。
    ななめ読みですが興味ある記事が多く2ヶ月もかかりました。
    故郷への愛と 仕事への熱意,使命感 さらにお人柄がしのばれる文章にファンとなり これからも読ませて頂きます。ありがとうございました。

    なおボクは昭和26年に高台小学校開校のとき東小学校から転校(分校?)しましたので懐かしく感じます。

    返信
    1. 北のお魚大使

      まーちゃんさん、はじめまして。
      コメントをいただきまして、ありがとうございます。
      2か月をかけて私のブログを読んでいただいたとは、感激です。
      まーちゃんさんは、高台小学校が出来たときの児童だったのですか?
      察するに、それなりの年齢のお方で、その年代でキーボードを打てる方はあまりいらっしゃらないのでは?
      スゴイですね。

      今回も書いていてよかったなぁ、とまーちゃんさんの書き込みを読んで思いました。
      自慢できるような内容ではありませんが、今後とも読んでいただいて、たまにはコメントをいただけると嬉しい限りです。

      返信
  3. もとiwanaibito

     お久しぶりです。  懐かしい写真ですね、 記念誌読んでみたいです。 数年前 義理の母が協会病院に入院しており、お見舞いするたび病室の
     窓から見る景色が小学校の窓から見ていた光景と同じで当時のことを
     思い出していました。 協会病院の周りの木々は当時のものかな・・・
     とか・・  私はもうすぐ63歳になりますが5・6年生の時の担任の先生  が自宅の近所に住んでおり先生と生徒のお付合いをさせていただいてい  ます。   先日、私の姉が専務さんの叔母さんと友達だったようで専務
     さんか、お兄さんか、幼稚園へ行きたがらないのを、連れて行くことが
     度々あったと話していました。 姉は今年古希です。

    返信
    1. 北のお魚大使

      もとiwanaibitoさん、お久しぶりです。
      おっしゃる通り、今の協会病院の窓からの風景は、高台小学校からの風景と同じですね。
      周辺の木々はあの当時のものかはわかりませんが、そういった思いをされることが建物がなくなっても、皆の心に立っているという事だと思います。
      当時の先生とご近所づきあいですか?いろいろな人のつながり。特に学校という存在は、その中心にありますね。
      幼稚園に行きたがらない子というのは、たぶん私の兄です。
      私は当時から、嫌がっても、じっと我慢の子でした。
      記念誌、読むことが出来るように、ご連絡いたします。

      返信
      1. 北のお魚大使

        もとiwanaibitoさん、高台小学校閉校記念誌をPDFにしました。
        ご覧になりたければ、PCのアドレスを記入の上、コメントをいただけますか?
        書き込んだアドレスは私しか見ることができませんので、ご安心ください。
        容量が大きいので、「宅ファイル便」というもので送らせていただきます。
        宅ファイル便からメールが届きましたら、そちらからダウンロードしてください。

        返信
  4. もとiwanaibito

    一度コメントしたのですが、反映されてないようなので
    もう一回送ります。
    ダブっているようなら削除して下さい。

    返信
  5. もとiwanaibito

    ありがとうございました。記念誌を読んでいて当時の先生方の生徒
    (我々)接する姿勢が理解でいました。 すばらしい環境の中で育った
     ことを改めて感謝したいと思います。  いまだに当時の友人と集ま
     り語り合うのも皆同じ想いがあるからだと思います。

     私の妻も同じ学年で東小学校卒で高台小のことを今でも
     「貧乏学校」と言います。 私も負けず東小のことを
     「ボロ学校」と言い返しています。  笑いますよね・・・

     

     

    返信
    1. 北のお魚大使

      もとiwanaibitoさん、PDFでご覧いただけたようで、よかったです。
      夫婦同級生で、そんな会話が出来ると言うのも面白いですね。
      卒業してみると、校舎そのものが古いか新しいかなんて問題じゃないですよね。
      いかにその場でいろんな思い出が作られ、成長させてもらったかだと思います。

      返信
  6. 高山 功

    専務 ありがとうございます。
    私の二学年先輩である専務は5・6年生時の担任はT.O.先生でしたか?
    専務達の学年の先輩達には可愛がられました。(もちろん良い意味ですよ)
    高台小学校の校歌今でも覚えています。「潮風が吹く丘の上 明るい声が……堤に萩の花が咲く」
    私の兄姉も同窓生です。
    このUPの反響が大きいのは 私も嬉しく感じます。
    この学校で「初恋」をし、「登校拒否」をし、「いじめ」も克服し、未だに交流出来る担任や友がいる。
    本当に私を今でも支えてくれています。

    返信
    1. 北のお魚大使

      高山さん、勝手に高山さんの文を引用させていただいて、申し訳ありませんでした。
      でも、立派な文章に感銘し、これは紹介しなければと思った次第です。
      私の5・6年の担任は、S先生でした。
      高台小学校校歌は全部は歌えませんが、フレーズはちゃんと覚えています。

      久しぶりにコメントがたくさんいただけたブログの内容でしたね。
      たまたま見つけた記念誌の中に、高山さんの文があったから、なおさらのことですよ。
      書き込まずとも、同じ感情で読んでいただいている人がまだたくさんいると私は信じています。

      返信
  7. 島野っ子

    こんにちは。

    当時、私は小学5年でしたが何度か高台小学校には
    学校間の行事?かなんかで伺った覚えがあります。

    授業の予鈴の音が独特の音楽だったのを
    記憶しています。

    また、廃校になる前年に 東芝日曜劇場の「乙姫先生」主演:吉永小百合
    で、岩内高校として高台小が使われてましたよね。
    ロケを見学に行ったのが記憶の隅に残ってます。

    返信
    1. 北のお魚大使

      島野っ子さん、いらっしゃいませ。
      予鈴の音までは私はおぼえていません。でも、西小学校とは明らかに違っていたという事ですね。

      そうそう、吉永小百合さんがロケで高台小学校に来た事は、当時の岩内町の10大ニュースに入っていたんじゃなかったでしょうか?私が中学生の時だと思います。

      いろいろと学校にまつわる昔話は、みなさんの話題は溢れだしてきますね。

      返信
  8. IWANAI応援隊

     初めまして。
    7月に初めて高台小学校のクラス会をやることになり、PCで検索していたら
    高台小学校の記念誌が有ることが分かりMailしました。
    私は、東芝日曜劇場の「乙姫先生」の撮影のスタッフでした、とても懐かしく
    拝見していました。
     お手数をおかけしますが、記念誌よろしくお願いします。

    返信
    1. 北のお魚大使 投稿作成者

      IWANAI応援隊さん、はじめまして。
      高台小学校のクラス会ですか。
      小学校のクラス会なんて、なかなかできるものではないので、いいですね。
      PDFで送らせていただきますが、詳細は個人アドレスの方に書きます。

      返信
  9. 生まれは協会病院

    私の祖父母が、高台小学校の用務員を住込みでしておりました。
    学校の写真を見て、はっきりとは覚えてはいませんが、幼かったあの頃を思い出した気がします。

    返信
    1. 北のお魚大使 投稿作成者

      生まれは協会病院さん、はじめまして。
      2年前に書いた話題を見つけてくださって、ありがとうございます。
      そうですか、ご夫婦で住み込みですか。
      たぶん、私が通っていた時代よりも前の時代ですね。
      このブログは岩内の昔話もたくさんありますので、お時間のあるときにでも、違う話題を拾い読みしていただければと思います。
      またコメントをお待ちしています。

      返信
  10. moto大浜っ子

    はじめまして。
    数ヶ月前に偶然このブログに辿り着き、あまりの懐かしさに日々打ち震えながら拝見させていただいております。
    私は4歳から14歳まで岩内町に住んでおりました。
    高田幼稚園→高台小学校→一中2年と進み、父の転勤のため中3から岩内を離れました。1960年生まれで、社長さんより1学年上になります。
    当時変電所のそばに住んでおり、近くにあった福井水産加工場で購入していたタラ?の親子漬けという薄ピンク色の甘酸っぱい漬け物が好きでした。又、夕暮れ時になると、「野田の魚屋でございます」とのアナウンスにのせて移動販売車が来ていました。
    トイレはまだ汲み取り式で、「エリーゼのために」のメロディと共にバキュームカーが登場したものです。
    夏は大浜海水浴場で遊びましたが、途中に「はまなす会館」という建物がありました。又、当時は神社に向かう道の左手にプールがあって、放課後は砂浜派(大浜っ子)とプール派(宮園周辺の子)に分かれていたように思います。一中からの帰路は東山の職業訓練校の前の坂道を通りましたが、冬は決まって向かい風…強い浜風で、帰宅後に凍えた手を温湯につけて温めた時のじ〜んとした痛みが忘れられません。そういえば、母が友人に頼まれて「やめつけ」という内職をしていた事がありますが、独特の文化ですね。
    壁坂(私はガベザカと呼んでいました)沿いの福田商店、岡パン、東山墓地、高松商店、窪内呉服店、牧口歯科、前島医院、通学路の歩道橋、ニセコストア、軍司レコード店、レストラン和幸、大判焼き屋、大塚理容室、江川商店の2Fにあった算盤塾、ビリヤードの仔鹿、稲垣文具店、スイートコーン加工場のベルトコンベアで流れるコーンの青臭い匂い、東栄劇場で観た映画、紫烟(喫茶店)、小学校時代の鼓笛隊の練習、池田商店、池田商店の隣の斎藤商店ではくじを引きました、おしゃれ(確か銀水ストアの辺りにあったスーパー)、雷電の岩浜、運動会のリレーの時に流れていた「若い力」という曲、小学校の卒業式の際のエール交換→「近付いてくる春の息吹、春の息吹、待ち焦がれていた春が来るのだ…」、たつや洋菓子店の辺りに馬の蹄鉄屋さんがあったような…真っ赤に炙られた蹄鉄をドキドキしながら見物した記憶がありますetc.
    郷愁に任せてついつい長文になってしまい、すみませんでした。
    脈絡なく書き綴り、さぞ読みにくかったことでしょう。
    目を閉じるとあの頃の家族の笑い声が蘇り、切ないです。
    社長さん、沢山の思い出をありがとうございます。
    これからも発信をお願い致します。
    ありがとうございました。

    返信
    1. 北のお魚大使 投稿作成者

      moto大浜っ子さん、岩内町の昔の風景が出てくるような文章をありがとうございます。
      このブログが、子供のころの記憶を思い出すきっかけとなり、それを懐かしんでいただけたのですね。
      こうした事を言っていただけると、長い間こつこつと続けて来てよかったと感じます。
      人にとって故郷とはいかなるものか、人によっては辛い思い出だけしか浮かんでこない人もいるでしょう。
      でも、今いる自分はその子供時代の上に成り立っているもの。
      故郷はその姿を変えたとしても、そこで育った人の母なる大地に違いはありません。
      moto大浜っ子さんの心の中に、強く岩内町が残っていることに、今岩内町に住んでいる住民として、嬉しく感じます。

      さて、順番に私も知っている事をお返ししましょう。
      水産加工の福井さんは、数年前に廃業しました。スケトウダラの親子漬けですね。
      移動販売の野田の魚屋さんは、20年ほど前にお店はなくなりました。
      下水化は10年ほど前から進んでいますが、工事をしてお金をかけて改修する件数が少ないのが岩内町の悩みのようです。
      はまなす会館は、八興会館裏手にある、大浜地区のブロック集合住宅団地の集会場です。
      長屋のブロック住宅そのものが取り壊され、4階建の町営アパートに姿を変えました。
      神社近くのプールは、私たちが高校時代にもう使われなくなっていましたね。今は更地。
      大浜海水浴場は埋め立てられて、フェリー埠頭と工業団地になりました。
      職業訓練校は今もあります。変電所に降りる坂も舗装になっていますが、当時とほぼ変わらないと思います。

      「やめつけ」という言葉は、私は初めて聞きましたが、弊社の番頭さんに聞いたところ、スケトウダラの釣の縄の仕掛けを作る作業のようですね。
      岩内独特の作業風景です。
      福田商店は閉店。岡本パン屋さんは、今はベーカリーサンライズという福祉のパン屋さんになりました。
      個人商店のお話は、また別の機会に・・・

      思い出の中に家族の笑い声があるのは、とてもうれしい事ですね。
      岩内町を巣立った多くの方が、いろいろな思いで地方や都会で暮らしていらっしゃる。
      人口13,000人ほどになってしまいましたが、何とか元気な岩内であってほしい。
      私は私ができることをしっかり頑張ります。

      いつの日か、ぜひ岩内町に足をお運びください。
      岩内町はmoto大浜っ子さんの「ふるさと」です。

      返信
      1. moto大浜っ子

        こんばんは。
        お忙しい中丁寧な返信をいただき、ありがとうございました。

        中3で札幌に移り住み早40年…時の流れの速さに驚くばかりです。ブログにアップされた数々の美しい写真に目を通していると、ふと「自分にとってあの頃日常だった光景が今は非日常、でも社長さんは今正にこの光景〜日常の中で生きていらっしゃる」と思い、なにか不思議な気持ちになります。

        私にとって雷電海岸は特に思い出深く、父の会社の同僚の方達と浜鍋をしたり、ホテル雷電の近くのトンネル付近まで家族でドライブしたりしたものです。落石で通行止めになっていた事も多かったです。

        「やめつけ」ですが、母の友人のご実家が山野さんという網元?さんで、時々手伝っていたようです。釣り用の細い縄に「やめ糸」を輪っか状に等間隔に付けていくという作業でした。縄を丸いざるに入れていくので、終了後はまるで巨大なざるそばみたいに見えた事を覚えています。

        そういえば、以前ブログに投稿されていたT浦さんのお兄様と私は同級生です。確かお父様が検察官でしたが当時の私には警察官との区別がつかず、「ケンサツカンって何?」と思っていました。

        また長文になってしまいましたね。
        岩内に社長さんのような志高い方がいらっしゃって日々情報発信してくださる、また時には問題提起してくださる、この巡り合わせに感謝しています。これからもよろしくお願い致します。

        返信
  11. moto大浜っ子

    すみません、勝手がよく分からず「返信」で送信してしまいました。再度投稿致します。

    こんにちは。
    お忙しい中丁寧な返信をいただき、ありがとうございました。

    中3で札幌に移り住み早40年…時の流れの速さに驚くばかりです。ブログにアップされた数々の美しい写真に目を通していると、ふと「自分にとってあの頃日常だった光景が今は非日常、でも社長さんは今正にこの光景〜日常の中で生きていらっしゃる」と思い、なにか不思議な気持ちになります。

    私にとって雷電海岸は特に思い出深く、父の会社の同僚の方達と浜鍋をしたり、ホテル雷電の近くのトンネル付近まで家族でドライブしたりしたものです。落石で通行止めになっていた事も多かったです。

    「やめつけ」ですが、母の友人のご実家が山野さんという網元?さんで、時々手伝っていたようです。釣り用の細い縄に「やめ糸」を輪っか状に等間隔に付けていくという作業でした。縄を丸いざるに入れていくので、終了後はまるで巨大なざるそばみたいに見えた事を覚えています。

    そういえば、以前ブログに投稿されていたT浦さんのお兄様と私は同級生です。確かお父様が検察官でしたが当時の私には警察官との区別がつかず、「ケンサツカンって何?」と思っていました。

    また長文になってしまいましたね。
    岩内に社長さんのような志高い方がいらっしゃって日々情報発信してくださる、また時には問題提起してくださる、この巡り合わせに感謝しています。これからもよろしくお願い致します。

    返信
    1. 北のお魚大使 投稿作成者

      moto大浜っ子さん、こんにちわ。
      今までの岩内町への思いが書きこむ事によって、どんどんあふれてくるような感じですね。
      どうぞ、思う存分このブログをご利用ください。

      雷電海岸と雷電温泉はずいぶん変わってしまいました。
      温泉街は今は三浦旅館を残すのみ。ホテル雷電も、閉鎖後一時は違う経営者が営業していましたが、長続きせずに廃屋になってしまっています。
      トンネルも当時の小さなものがいくつもありましたが、今は長いトンネルに変わりました。

      「やめつけ」のお仕事は、スケトウダラの俗に言う「なわ」のお仕事で、はえ縄の長い元糸に餌をつけた針のヒモですね。丘の女性たちの仕事で、ザルにきれいに糸が並んでいくその模様のようなものは、まさに芸術的でした。

      T浦君のお父さんは検察官でしたね。同時期に転勤してきた女性のお父さんは、裁判官でした。彼らも転勤族でした。
      おかげで、私も過去の記憶が戻りました。

      このブログは、役場の情報よりも岩内の事をよく書いているとほめてくださる方もいます。
      銀行などの転勤されてきた方は、これを読むと岩内の事がよくわかるし、昔の事も知識として入ると言われるようです。
      ありがたいことですが、私としては、岩内町がもっと情報発信してほしいといつも思っています。

      また何か気がついた事がありましたら、お書きください。投稿方法は、返信でもどちらでも構いません。

      返信
  12. SSk

    東芝日曜劇場で1976年放送の乙姫先生について探していたところ、こちらを拝見させていただいております。
    思い出してはビデオなどがないか探していますが、ネット上にもレンタルショップにもないのが残念です。
    是非、もう一度見たいものです。
    当時小学生だった私は、毎年夏になると母の故郷である礒谷へ行くため岩内駅からバスに乗り換えたものです。
    ドラマでは岩内町が舞台ということで興味津々でみていました。
    40年以上経った今でもBGMの第九が記憶に残ります。

    返信

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