取壊される国富の煙突

 以前もこのブログでご紹介をした共和町国富の大きな煙突。その煙突が、地震による倒壊の恐れがあるということで、取り壊される事になりました。

 煙突は、1944年(昭和19年)に完成。69年目を迎えます。弊社の株式会社設立と同じ歴史です。8月下旬から内側の耐火レンガの取り外し作業が行われ、10月からは1日約2mずつ取り壊し、11月末までに終了するとのことです。

 札幌から岩内方面へ向かって稲穂峠を降りてくると、その大きな煙突が見えてきます。そうすると、帰ってきたなと思わせるのは私だけではないはずです。

 故郷にはそんなシンボルというものが存在しますが、皆さんの故郷には、どんなシンボルがあるでしょう?これを見ると、故郷に帰ってきたんだと思わせる建物、景色、臭い・・・・そして、人。

 

取壊される国富の煙突」への10件のフィードバック

  1. 島野っ子

    岩内を離れて29年になりますが、帰ってくるたびに
    あれが無くなった、あの建物はどうしたんだろうって
    思うことが多く、岩内の変貌ではなく衰退に胸が痛みます。
    (こないだ帰った時は『銀水ストアー』が閉店してました)

    おっしゃる通り、あの煙突は帰郷のシンボル的な存在でした。
    あれが見えたら「あと15分で着くね」なんて話してました。
    11月末に無くなるという事は、もう見ることが出来ないのかも・・・。

    想い出はないけれど
    確かに帰郷の際の『指針』でした。

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    1. 北のお魚大使

      島野っ子さん、コメントありがとうございます。
      商店街のシャッター通り化、空き店舗、街中の遊休地の増加。
      そうですね。たまに帰ってくる方にとっては、変貌ではなく衰退と写る事でしょう。

      少子化、高齢化社会、中央への集中という世の中の流れでは、
      それに逆らう事自体無理があるような気がします。
      物質的には、どんどんなくなっているかもしれませんが、
      まだまだ岩内に住んでいる人はいますし、私たち企業もあり、生産されるものもあります。

      岩内を離れた方が、「帰ってきた」と安堵できるように、私たちは努力しなければなりませんね。

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  2. 島野っ子

    でも、私ももちろん岩内の衰退を望んでいる
    訳ではありません。

    幸いなのか私の同期生は岩内で頑張ってます。
    アイズのパン屋、吉田の蒲鉾等々みんな頑張ってると
    聞きます。

    いつも心のどこかで気にしてるし
    いつか帰って暮らしたいとさえ思っています。

    また、コメントさせていただきます。

    返信
    1. 北のお魚大使

      島野っ子さんのような、岩内を離れても岩内に対して望郷の念を持っていただいているから、
      このブログを読んでいただいていると思っています。
      そして、皆さんのコメントから、岩内を応援してくれている事をとても強く感じています。

      島野っ子さんの同級生の方たちも家業の後継ぎとして頑張っていますね。
      島野っ子さんが岩内出身だと胸を張って言えるように、岩内人として、私なりに頑張っていこうと思っています。
      岩内への思い、強く受け止めました。
      ありがとうございます。

      返信
  3. 八王子の山崎

    島野っ子さんがおしゃっる通り、本当にたまに故郷を訪ねる私には変貌が寂しいですね。住んでいないから無責任かもしれませんが、広い道路、立派な建物はあっても人通りは極めて少なくて空き地が増えて悲しいです。昔の活気・喧騒を知るからですが、半世紀前では時代錯誤ですよね。
    旧住友金属鉱山の大煙突は、トンネル出来る前の稲穂峠時代から、無事の峠越えに安堵したりするシンボルでした。

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    1. 北のお魚大使

      八王子の山崎さん、こんにちわ。
      ちょっと話題が飛んでしまいますが、岩内にはたくさんの小さな公園があります。
      子供が少なく、またその公園で遊ばないので、雑草が生い茂ってしまうのです。
      昔は野球をする子が集まったりしていたので、内野の部分は土が出ていたものです。

      稲穂峠のトンネルが出来る前?ですか。さすがに私はそれを知りません。
      トンネルに入る前に北側に小さな道がありますが、昔はそれを通っていたのでしょうか?

      返信
  4. 八王子の山崎

    昭和33年8月、札幌・小樽を会場に北海道大博覧会が開催され、私も発足小学校(現:北辰)6年生の修学旅行として見学に行きました。この時、団体貸切中央バスに乗って曲がりくねった稲穂峠を越えたことがあります。ジープで越えたこともありましたが、昔でもバスは大きいですからカーブでは皆でキャーキャー騒ぎましたよ。トンネルは昭和37年開通のようですね。旧道も一部入れるらしいですが一般車は無理です。(トンネル手前の道も多分そうです。)
    ついでに、神恵内手前の弁財澗旧道のさらに旧道が断崖絶壁の途中に残っていますが、私が子供時代はあの恐ろしい旧道を中央バスなどで走りました。
    どんどん道が立派になって便利になりますが、多くの犠牲を払って掘り進んだであろう旧道も一部大事に保存して欲しいものです。

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    1. 北のお魚大使

      八王子の山崎さん、貴重な昔話、ありがとうございます。
      北海道大博覧会ですか?初めて聞きました。
      ダートの細い道を大型バスが通るなんて、今では考えられないですね。
      神恵内へ抜ける断崖絶壁のトンネルは、知っています。ほんと見るたびに、よくここを車が走っていたなと。
      古いトンネルを残すのは、崩落事故を回避するのが大変なのでしょうか。

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  5. tagutikunio

    そうですか・・
    倒れたら危険だからなんですね。
    ここで暮らしていた住民は
    多分、胸が締め付けられる感じでしょうか・・

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    1. 北のお魚大使

      tagutikunioさん、はじめまして。
      みなさん、それぞれの思いがあると思います。
      車で通り過ぎる時しか見ない私たちも、なくなったらどんな感じになるか、想像できませんね。

      返信

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