“八王子の山崎さん”から昨年末に2枚の写真をいただきました。1枚は以前ご紹介をした岩内バスターミナルの写真。もう一枚は、今日ご紹介をする、国鉄岩内駅の降車口の風景です。
汽車が到着すると、人がどっとあふれ出るので、降車口は広くなっていたのを思い出しました。奥にはSLの煙突が見えるので、私が生まれる前の昭和30年前半であると想像できます。
人が出てくる左側は待合室と駅の事務所がありました。冬は大きなダルマストーブがあって、ストーブを囲むように黒光りをした木の長椅子があったと思います。
50代以上の皆さんにとって、この写真は当時の岩内の風景や国鉄岩内駅の思い出を呼び起こす、呼び水になるのではないでしょうか?
八王子の山崎さん、貴重なお写真ありがとうございました。
ここから、「とまりん館」傍にあった発足駅行の茅沼炭鉱鉄道列車(石炭貨車に客車1両連結)も発車していたことを知る方が少なくなっているのは寂しいですね。当時石炭は重要なエネルギー資源で、多くの犠牲を払いながら産出していました。歳月が経ち、遠く離れても、岩内町や共和町は私達家族にとって多様な思い出多い故郷ですし、自分自身の原点だとも思っています。
話は全く違いますが、協会病院の急患受け入れの件、何とか良い方向で解決して欲しいですね。救急時は別としても、病院を選択出来る今の自分が恵まれているんだとあらためて気づきました。医療福祉に地域差があってはいけないと思います。
八王子の山崎さん、ありがとうございます。
残念ながら、私の年齢では茅沼炭鉱鉄道が走っているのを見ることが出来ませんでした。
茅沼炭鉱があったために、岩宇地方は、産炭地の過疎対策地域にもなっているんですね。
協会病院の医師2名は決まったと今日の新聞に書かれてありましたが、急患受入はまだ出来ないとのことです。
八王子の山崎さん こんばんは 初めまして
自分の父は茅沼炭鉱鉄道列車の発足駅に勤めてまして
兄はここから小学校に何年か通ってました 家も発足駅のふもとの山側
にありまして 今は北電の関係から閉鎖となり故郷が見れなくなったのが
残念です
自分が赤ちゃんの頃はたぶん岩内まで乗り その後札幌に行ったときは
乗り換えて行ったと思います
まことさん、はじめまして。
お父さんが発足駅に勤務されていたとのこと。67歳の私が子供の頃にお世話になったのかもしれませんね。
私の父は農業試験場に勤務していて、昭和27年から8年間、駅から山に向かった炭住に住み、私は発足小中学校に通いました。まことさんのお兄さんが通われたのは掘株小学校でしょうか。昨年も訪れましたが、ホリカップの懐かしい岩浜へは原発で立ち入れず、堀株小学校、発足小中学校もとっくに閉校で寂しい限りです。駅から山側には友人も住んでいましたが廃屋になっていました。
八王子の山崎さん さつそくのお返事ありがとうございます
もしかしたら同じ部落に住んでいたのではないでしょうか
場所は共和村柏木です
父も母も亡くなっているのでわかりませんが 自分は32年生まれです
兄は岩内の高台小学校に通ってました
まことさん、私は昭和21年生まれですから、私が発足駅前の床屋さんや自転車屋さん、雑貨屋さん(菊地商店)などに行っている時は赤ちゃんから5歳位だったのですね。我が家跡は既に植林された森の中になってしまいましたが、今の地名では宮丘になります。最初は電気もない一番山奥の炭住でした。
お兄さん、発足から高台小学校ですと通学にとても頑張ったのですね。
専務さん、ブログを借りてすみません。写真掲載頂いたおかげで発足駅を語り合うことが出来ます。ありがとうございます。
時が経ち遠く離れて、マルサン食堂、杉原精肉店、小林書店、イセヤさんなど子供時代にお世話になったお店が、亡き両親兄弟を偲ぶ上で大切なものになっています。
八王子の山崎さん、まことさん、故郷の話で盛り上がっていますね。
私としてもこの場が人を結び付けるお手伝いが出来て、何よりうれしく思っています。
遠慮なく、どんどんここを利用してお話ください。
私もお二人の書かれた内容をとても興味深く読ませていただきました。
ありがとうございます。
八王子の山崎さん今晩は、国道から宮丘に歩いてゆくと木工所やひつじ飼ってるところや 小さな牧場無かったですか またバス停のそばには福森ふとん店もありました 雑貨屋のそばには池のような沼のようなのがありました
今の地図で観てみると柏木でなく宮丘となってるので 同じ地区に住んでいたのかもしれませんね 岩内の店書かれてましたが ほとんど残ってますね
岩内に母とお買い物の帰りに さんまるのくしだんごを食べるのが楽しみでした
一八さんのブログからこのような出会いがありうれしく思います
ありがとうございました
八王子の山崎さん、まことさん、どんどん昔の発足や岩内の風景が戻ってくるように感じます。
故郷、田舎とはそんな人の心に残る素晴らしいものだと、改めて感じています。
今の子供たちが大人になって、この故郷がお二人のような感情を持つことが出来るだろうか。
時に不安になりながら、そんなことを思います。
今、このブログを続けていてよかったとつくづく思っています。
どんどんこの場を利用してお話ください。
もしかすると、昔のご近所の方が読まれるかも知れませんね。
まことさん、昔の住まいは近かったようですね。私の家は山の中腹で奥でしたが、駅があった柏木には頻繁に行ってました。国道から入った所に中川木工所があり同級生がいました。福森さんも覚えがあります。今の環境センターの山側には土俵も有って、お祭りには相撲大会も行われましたよ。大きな池は昔の掘株川の一部で、鮒が大漁でした。
マルサン食堂のラーメンが懐かしかったけど既に廃業で残念です。たまに、イセヤさんのそばにあった和田菓子店でアイスクリームを母親が食べさせてくれ、最高のご馳走だったことを思い出します。
山中腹の我が家から、茅沼炭鉱から発足駅に石炭を運ぶ索道(ケーブル)や羊蹄山、雷電岬を眺め暮らしてました。
兄達は、発足から岩内一中、岩内高校に通ってました。特に冬は悲惨でしたね。
専務さん、出会いの機会を頂き、かつ利用させて頂きありがとうございます。
昔は寿都駅もありましたが再開できなくて残念です当時は台風で大変でした岩内はポスフールやめてしまいさみしいです