COMPANY INFO
会社名 | 一八興業水産株式会社 |
所在地 | 北海道岩内郡岩内町字大浜68番地7 |
代表者 | 紀 哲郎 |
設立 | 1914年 1944年4月法人登記 |
資本金 | 2,000万円 |
従業員 | 20人 |
業務内容 | 塩数の子、前浜釣たらこ等の魚卵製品。身欠にしん、日本海ます等の塩干加工品 の製造販売。鮮魚、水産加工品の卸売業。魚肥料の製造販売。 |
PROFILE
紀 哲郎 (き てつろう)
1962年 (昭和37年)1月生まれ |
現会長紀八郎の3男 |
1980年 (昭和55年) |
北海道立岩内高等学校卒業 |
1985年 (昭和60年) |
明治学院大学 経済学部卒業 |
1985年 (昭和60年) |
株式会社日本デジタル研究所入社(1991年7月退職) |
1991年 (平成3年)8月 |
一八興業水産株式会社入社 |
COMPANY HISTORY
1914年 (大正3年11月10日) |
創業者 紀 伊右エ門(年齢19歳) は、一八紀伊商店を創業。 岩内町万代において、海産商、木炭商を営業する。出身地は新潟県佐渡郡佐和田町(現佐渡市) |
1927年 (昭和2年11月29日) |
万代にあった建物を失火。その火事により、紀伊右エ門は全身に大火傷を負い、瀕死の状態になった。その後、会社は大浜の現住所に移転。 |
1934年 (昭和9年) |
店舗兼住宅を新築。同年、陸軍の大演習が行われ、騎兵旅団の旗軍宿営所になった。 |
1944年 (昭和19年4月22日) |
一八紀伊商店を改組し、岩内興業水産株式会社を設立。海産物(主に昆布)加工、問屋業を主にする。 のちに社名を一八興業水産株式会社に変更した。 |
1946年 (昭和21年) |
第一紀州丸建造(昭和30年11月廃業)。 |
1948年 (昭和23年) |
第二紀州丸建造(昭和30年8月売渡、廃業)。両船、春の鮮ニシンの買付、夏網走に回航し鮫漁、冬期間は岩内でスケトウダラ漁を行っていた。 |
1954年 (昭和29年9月26日) |
岩内町大火。歴史的被害をもたらした洞爺丸台風と同じ台風15号により、岩内町の三分二が焼失。弊社も主要な建築物のほとんどを焼失した。 |
1969年 (昭和44年8月) |
現在の事務所建設 |
1969年 (昭和44年11月1日) |
第一工場の乾燥機不具合により出火。道路を挟んだ事務所側工場は残るが、主要工場全焼。翌年突貫工事で工場建設。 |
1977年 (昭和52年10月) |
事務所北側工場(現魚卵工場)の建設により、生処理、身欠製造、魚卵製造、珍味製造それぞれの専用加工処理が可能になる。 |
1977年 (昭和52年) |
200海里制定により、日本海沖で操業していた鱒漁が減少。事業内容の変更を模索。 |
1984年 (昭和59年) |
国鉄岩内線が廃止。昭和35年ころから本州への輸送形態は徐々に鉄道からトラック輸送に切り替わる。廃止されるまでは、貨車の利用数量は、後志管内で1位の取扱をあげた。 |
1991年 (平成3年9月) |
初代社長 紀 伊右衛門(96才)の死去により、2代目 紀 八郎が社長に就任。 |
1998年 (平成10年)10月 |
ホームページ立ち上げ。当時、岩内町の企業では一番最初の取り組みだった。 |
2003年 (平成15年) |
日本海岩内海洋深層水利用開始。海洋深層水を積極利用し、その特性を生かし、塩数の子の製造に効果を発揮し、品質向上、市場での評価もさらに上がった。最初に深層水を利用した企業であり、その後も一番の大口ユーザーとなる。 |
2008年 (平成20年)9月 |
経済産業省 地域資源活用事業計画の認定を受け、「にしんのおかげ」の開発、商品化に至る。 |
2010年 (平成22年)4月 |
ホームページリニューアル。「いっぱち専務の独り言」同時スタート。 |
2011年 (平成23年)2月 |
第18回北海道加工食品フェアで「にしんのおかげ」金賞受賞 |
2012年 (平成24年)8月 |
「にしんのおかげ」が、第一回ファストフィッシュ商品に認定 |
2012年 (平成24年)11月 |
日本野菜ソムリエ協会主催 調味料選手権で「にしんのおかげ」が入賞 |
2012年 (平成24年)12月 |
北海道経済産業局主催 北国の省エネ大賞受賞 |
2013年 (平成25年)9月 |
日本食品衛生協会主催 食品衛生優良施設 北海道知事表彰 |
2014年 (平成26年)2月 |
決算期を9月から2月に変更。 |
2014年 (平成26年)3月 |
資本金を1000万から2000万に増資。 |
2014年 (平成26年)11月 |
紀伊右エ門が現在の会社の前身である、「一八紀伊商店」を創業してから100周年を迎える。 |
2015年 (平成27年)4月 |
二代目社長紀八郎が会長に。専務の紀哲郎が三代目社長に。 |
【八興会館について】
1963年 昭和38年2月9日 |
紀伊右衛門は私財を投じ、財団法人八興会館を設立。その館長に就任し、剣道柔道を通して青少年の健全育成に努めた。 |
1972年 昭和48年1月18日 |
紀伊右衛門の生地である佐渡郡佐和田町に私財を投じ、第二八興会館を設立。 |
平成18年3月 | 建物老朽化と青少年健全育成の任務を終え、八興会館閉館。 |
PROGRESS
~身欠にしん~
大正年間に入ってから接岸ニシン漁が減少。昭和31年以後、道東、オホーツク海などより水揚げされるニシンを輸入し、加工するようになったが、全町的な事業に発展し続けた。
前浜ニシン漁により培った加工技術は、現在は米国、ロシア、オランダなどの世界のニシンを原料として、身欠にしん、塩数の子の製造を続けている。
昭和40年頃より、ニシン加工を年間操業するために、乾燥機の設置。最初は熱風乾燥機(重油使用)を使っていたが、次第に冷風除湿乾燥機(電力)に置き換わっていく。
~肥料~
創業時代より、肥料となる胴ニシンを本州へ移出した。輸送手段は1,000トン以上の大型貨物船を利用。このときできた取引先が、のちの一八が躍進した源となる。
鰊雑肥と呼ばれる肥料(乾燥した骨、頭、尾)は、根強い需要があり、昭和初期から現在に至り生産集荷販売。
はえ縄漁法で行うスケトウダラ漁は、岩内が発祥の地。昭和29年のピーク時は大小180隻もの漁船があったが、年々減少、現在は5隻のみの操業となる。 関西を中心に需要がある生助子は、岩内の釣ものといえば、一番高値での取引となる。 釣たらこも言わずと知れた高級品。 しかし、スケトウダラ漁が少なくなるとともに、生産量も年々落ちている。 スケトウダラを醤油、砂糖ベースの調味に付け込んで干した「みりん干」は、佐渡島が発祥の地で大正年間から作られていた。その技術が岩内へ受け継がれ、昭和初期からの珍味として、今も製造をしている。 第2次世界大戦の勃発で、みりん干製造は中断したが、昭和30年秋から製造再開。年々生産量を増大。ローラーで伸した「味の肴」とともに、年間を通して製造したが、昭和60年をピークに縮小。 昭和29年の大火後、スケトウダラの頭を乾燥、粉砕して、肥料として本州に販売。乾燥機が普及する昭和40年頃まで。
日本海沖で獲れる青マス(カラフトマス)は、スケトウダラと同様のはえ縄で行われていた。 昭和30年春、岩内から出漁する釣り船は春の有望な漁業で、うろこがビカビカの鮮度の良さと、油ののっているときの漁獲のために、サケよりもマスのほうがうまいと岩内では言われるほど。 昭和30年180隻余で操業していたのをピークに減少。 岩内の鱒釣船は昭和の年号とともに消え、平成5年の奥尻南西沖地震を境に桧山地区の釣船もなくなる。
塩助子、生助子に使用する木樽の製造。昭和23年秋から昭和33年春まで。
昭和23年頃から29年頃まで。 スケトウダラの生肝臓を原料として製造。米国へ輸出。北海道肝油協同組合の有力な企業として実績を上げた。
昭和10年頃より開始。現在撤退。
昭和10年頃より25年頃まで。 第2次世界大戦、陸軍の糧秣廠(苗穂)、海軍(横須賀)の指定工場となり、昆布を納品する。
昭和20年頃から28年まで。 輸入小麦原料使用。
昭和23年から28年まで。 輸入小麦原料使用。
昭和23年から29年9月まで。 輸入小麦原料使用。
ACCESS
一八興業水産株式会社
〒045-0001 北海道岩内郡岩内町字大浜68番地7
TEL:0135-62-1811 / FAX:0135-62-1835